テレビの報道バラエティや情報バラエティ、雑誌や健康・ダイエット系の書籍など、・・・といちいち例示するのも面倒くさいほど、世の中では「専門家」がもてはやされています。医学博士か、あるいはよくわからない横文字の資格所持者じゃないとダイエット本は書けないかのごとく、表紙には必ず肩書きが載っていますが、多少リテラシがある人にとっては当然、そんな肩書きなど単なる箔付けに過ぎず、内容の正しさを保証するものでは全然無いことは常識です。
 むしろそんな肩書きほど恣意的に、悪意を持って利用されるもので、よくあるのが「○○問題に詳しい大学教授の□□さん」のようなパターンです。一見専門家のような顔をしながら、実は調べてみると大学教授は正しいけど全然分野が違う学部の教授だったりして、ほとんど身分詐称レベルの悪質さです。実例としては、有機化学や農薬問題に詳しい(経営学部の)大学教授ってのがNHKに出てたりしましたねえ。


 そういうわけで今の社会、専門家の肩書きについてはものすごく重要視されているように見えますが、では専門家本人についてはどうかと考えると、どうもその能力はかなり軽視されているとしか思えないことが多々あります。
 例としては、昔から明白な、素人でも普通に思いつくような「問題」を提示する人がたくさんいる事です。


 例えば農薬問題で言うと、未だにレイチェル・カーソンの「沈黙の春」を語る人がいます。残留性の高い危険な農薬を、バンバカ使っていくのは危険じゃないか!というようなお話で、ついでに「複合毒性」の話や、微量の農薬が体内に蓄積していく!なんてのもよくあるパターンですが、こういうことを言う人は果たして、農薬メーカーの専門家達はこれら「問題」を知らないとでも思っているのでしょうか
 カーソンの「沈黙の春」はもう40年以上前の本で、色々な方面に衝撃を与えましたが、おそらくもっとも大きな衝撃を受けたのは実際にDDTを扱っている業者だったのではないでしょうか。少なくとも当時、DDTは使われすぎで、そこに問題があった事は間違いないのですが現在までそんな問題が残っていると考えるのはこっけいです。


 DDTはすでに30年以上前に全世界で使用が禁止され、あまりにも禁止されすぎたせいでアフリカ諸国でマラリア患者が激増したのも有名な話です。もちろん、それ以後の農薬はその時その時の教訓を活かし、「問題」をできるだけ解決しようとしながら開発されているのです。中国ギョーザ事件の際、有機リン系殺虫剤が瞬間的に話題になりましたが、有機リン剤の毒性問題ももうとっくに語りつくされているもので、現代に残っている有機リン剤などほんのわずかでしかありません。


 私はここで「素人にも思いつくような明白な問題」など全て解決されているのだ、と言いたいのではありません。誰でも思いつくが意外に難問であったり、設問そのものが誤解であったりする場合などもありますが、少なくとも何か問題が存在する時、それが本当に最新最先端の問題でない限り、誰か他のもっと優秀な人がそれについて検討したことはあるだろう、という事です。


 例が長くなりましたが、つまり素人が思いつくような問題が今でもまだ問題として存在しているのだ、と思って疑わないことが、社会的な専門家軽視を感じる点なのですが、もうちょっと考えてみればこれは専門家がどうとかは関係なく、そう考える人の想像力や責任感の問題でしょう。
 つまり何か問題に触れたとき、「もしかしたらこの問題はすでに解決(検討)済みなのではなかろうか?」とちょっとでも考えれば済むこと(結果について調べてみればいいだけ)なのですが、解決されていないと感じる、というより問題を単に問題のままにしてそこからどうするかなどという考えが全く無く、単に他の人(専門家)に投げるだけ、という無責任さが一番の問題でしょう。
 ここでいう無責任は、問題の検討や解決を人任せにしていることではありません。それら問題の解説、検討の過程を、専門家達は私ら素人に伝えてしかるべき、というような考えが透けて見えるところが問題です。


 そしてそんな無責任さの一端を担っているのは間違いなく、冒頭に出した報道バラエティや情報バラエティの番組、無責任な書籍などでしょう。もちろん「肩書き専門家」がついていれば悪質さは増します。なぜなら今、まさにそういうマスコミ情報にて「単に問題を放り投げるだけ」と言う行為がしょっちゅう行われているからです。


 簡単に言えば、「○○が今、問題になっています」「あー確かにそれは問題だよねー」「んだんだー専門家達は何をやってるんだー」「えっ?そんなのもうとっくに知ってて対応済みなんですけど・・・」「でも今問題になってるんだから、改めてもっと対策しろ」てな感じ。


 てか、もともとohira-yさんのブログで■「食の安心」の「真の脅威」は? を読んで、社会の信頼度は結構高いですよねえ、みたいな話を書こうと思ってたのに何だか全然まとまらなかった。以下の部分が、重要なことだと思ったのです。

 ここから引用。



具体的な例示がないので、昔からのものを使いながら「バランス」のとれた生活というものがどういうものかは分からないが、昔に比べて今の方が「食の安全」に対して脅威が迫っているということはないだろう。それは、社会が食のリスクに対して無知でなくなり、適切に対応が行われているから。個人が無知であろうと無かろうと、「食の安全」への対応は適切に行われている。少なくとも私は現在の食を取り巻く環境を信頼している。それは、食に対してだけでなく、公共交通や医療やエネルギー供給についてもそうだ。私が無知である分野についてもその方面の専門家が多くの場合適切に対応している、社会は信頼に足るものと考えている