日々2キロの鉱水を飲みながら、夜中二時まで実験室で文献と睨めっこ。


部屋に帰ってNHKで、三時までMAJORの再放送を見ながらラムミルクを舐め舐め。


いい気分になってシャワーを浴びてサッパリすると、寝床で読むはずの本も1ページも

読み進めなくてなっていつの間にか就寝。


甲子園第一試合のサイレンが鳴るぐらいに目を覚まし、シュプレヒコールを聞きながら

ウトウトしつつも寝汗でゲンナリ、ニ度寝できず。


殺人的な日差しになれつつ、三時ごろ実験室に行き、一行目に戻る。


バイトが入ると朝日を見つつ就寝。第二試合が終わるくらいに起床。


ここ最近の一番の楽しみは白身魚のフライです!!

確実に先行研究があるんだろうけど、そこらへんは調べてないのでご容赦を。




最近になって『ウェブ2・0時代の知=集合知=ボトムアップの知』ってことに気付いた。

これはすごい変化だ。まさに革命!


今まで『知』は主に(西洋の)大学等の専門的機関のヘゲモニーの中で作られ変化していった。


この『知』には歴史も含まれる。だから西洋以外の歴史は、西洋を基準とした視点で評価されて

いったし、いまでもそうだ。つまり『歴史=西洋の視点からみた歴史:』ということだ。かなり乱暴な

話なのはわかっている。でも『評価』というのは評価する側の権力を再生産する、ということは留意

すべきだろう。戦争に対する評価が勝者の正当化という事実を考えれば、歴史は常に流動的で

ヘゲモニーから逃れられない。ニーチェがずっと前に言っているように。


閑話休題。


とにかく今まではアカデミカルな『知』を人々が受け取る、というトップダウン的な『知』が主流だった。

でも今は違う。何が違うのかというと、ウェブ2・0時代で人々が容易に知識や意見の交換・構築がで

きるようになる中で、より多くの支持を持ったものが『知』として記録に残っていくようになったということ

だ。これは『知』の革命だ。まさに知の民主主義化。ヘゲモニーの民主主義化。


wikipediaの例がその顕著な例だけど、確実に『知』はボトムアップの方向に進んでいる。ネットに繋ぐ

人が増えていくごとにその傾向には拍車がかかるだろう。


やはりというかなんというか、この状況に大学側や知識人は反発している。大学によってはwikipedia

を試験やレポートで使用することを禁止している所もあるし(理由は曖昧である/改変の可能性があり

確立していない等)、知識人の多くは集合知=民衆愚ということを盛んに唱えている。


これははっきりいって既得権益を守るのに必死だ、というしか言いようがない。『知』を創り記録していく

のが、大学や知識人だけに限定されるべき理由がないからだ。倫理を持ち出したがるのはわかる

けれど倫理すら思想の一つでしかない。


もしかしたら言葉が経済学で語られたように、『知』が市場原理で語れるようになる時代が来るかもしれ

ない。この考えの是非も市場原理というヘゲモニーに組み込まれそうだけど。


ぐだぐだ書いていったけどトップダウン的な『知』がなくなるわけではない、ということは強調したい。

ただそれは集合知の中の一つになって特権的な地位をなくしていくはずだ。




気温が高いせいで頭がオーヴァーヒートして、電波で穴だらけな文章書いてる気がする・・・

訂正・推敲するのもめんどくさい。あ~まじで暑い。

最近ラテンがきてる。ちょっと前までは黒人ブームだったけど、今は断然ラテンだ。

理由はわかっている。ガエル・ガルシア・ベルナルの映画をたまたま二本借りてみたからだ。


『バット・エデュケーション』と『ブエノスアイレスの夜』のニ作品をなんと続けて見てしまった。

作品のあらすじは書かないけど、その恐ろしいほどの官能と憂鬱の世界もさることながら、

もうガエルにやられっぱなしだった。本当にかっこいいし、エロい。


見てる途中で、そういえばエロスって男性神だったし、本来「美」は女性だけに独占されるものでなく

ダビデ像を例に挙げるまでもなく男性にも備わっているものなんだなぁ、男も美しくあらねばならん!

、と彼のかっこよさ、綺麗さそして体から発せられるエロスに思考がドライブしっぱなしだった。

エレクトはしてないけど。


思えばロマン・デュリスにも去年ぐらい注目していた。両方ともいい男だ。

よくよく考えてみると、ラテン系俳優のよさは「湿り気」含んでいることだと思う。


例えばベニチオ・デルトロを脳内再生すると何故か汗ばんでいるし、アントニオ・バンデラスは

言うまでもなく確実に汗をかいている。ラテンの季候のイメージがそうさせるのか、実際の演技が

そうであるのかはわからないけど、彼らには必ず湿った印象をもってしまう。


さらに続けると、どこか「湿気」をまとっているその演技は一枚脱ぐとその魅力/湿度を増す気がする。

だからエロスを余計に感じてしまうのだろう。実際ガエルもベットシーンではかなり湿っぽかった。

『バベル』もレンタルに出されれば観るだろうけど、その「湿り気」ぐあいに注目だ。


そういえばこのニ作品のベッドシーン観てて、人の体温を感じる時、肌と肌の間には

「湿り気」が在ったことに改めて気付かされた。媒介としての湿り気。これは盲点だ。



湿り気があるともっと人は理解し、愛し合えるかもしれない。



というわけで、ぜひクーラーをきってSEXしましょう!ってなんだこりゃ(笑)

ブエノスアイレスの夜
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いまとてもホットサンドが食べたい。


コンビニにあるような両端がくっ付いたやつじゃなくて、普通のサンドイッチのパンを焼いたやつ。


焼き加減はもちろんカリカリで。カリカリしてないホットサンドなんて食べたくはない。


具は、そうだなシンプルにトマトとハムとチーズで。


パンの内側の片方にはしっかりとマーガリン、もう片方には薄くマスタードを塗って。


マーガリンの方にはトマトを、マスタードの方にはハムがくっ付くように、チーズを真ん中にして


オーブンに入れ、チンッと音がなるのを待とう。


この際、飲み物はいらない。あっつあつの出来たてホットサンドを無心で噛み付く。


カリカリしたトースト部分に、熱したトマトとチーズから出た汁気が染みておいしいんだけど


ちょっと食べにくい。でも午前四時の飢餓にとっては何の障害にもならない。


量は食べたりないぐらいでちょうどいい。飼いならすに満足は禁物だ。


午前四時の飢餓は、昼間のそれより具体的で饒舌らしい。



今日はやけに感傷的になってしまっている。原因をでっちあげると、多分、寂しいんだろう。

こんな時にビル・エアヴァンスを聴いてるのが余計にそうさせているのはわかるんだけど。

仕方がない。例にも漏れず、そんな気分で書く文章は私的で詩的、統合不全をおこすだろう。

これも仕方がない。


田舎にありがちだけど、友人のほとんどが地元に残っている。このことに善い悪いはないし、また

あったとしても言うもんでもない。それはわかっている。「でも・・・」と言いたい自分がいるのも、

わかっている。


黒田硫黄の『茄子』という漫画の中に「アンダルシアの夏」という作品がある。映画にもなった。

主人公はプロサイクリング選手(?)で、ヨーロッパ各地を巡っている。たまたま地元で開催された

レースがその作品の内容だ。この作品を今思い出した理由は、全部この台詞にある。


「 そうでなきゃ  そうでなくちゃあ 


生まれた土地から出ていけないだろう?

                        

   俺は遠くに行きたいんだ  」


この主人公は知っている。ノスタルジーを振り切るスピードを出すのがどれだけ大変なのかを。

振り切り続けないとすぐに追いつかれることを。遠くにあるものが本当に、本当に遠いことを。


現状に満足していないことがノスタルジーに繋がることは知っているし、本当にがむしゃらなときは

前しか向いてないことも知っている。そして、いま自分がノスタルジーを感じてしまっているのも。


どうやらスピードの出し方を忘れてしまったみたいだ。


嫌悪感で振り切るには、もう歳をとりすぎたのか。


センチメンタルすら振り切れてないのに。


関西は大丈夫だけど九州がヤバイ。


実家大丈夫だろうか。気になるけどまだ連絡していない。


う~ん電話しよかな・・・

「プロジェクトX~挑戦者たち~
 ミートホープの挑戦。奇跡の牛肉抜き牛肉風味コロッケ」

メーカーから、もっと安い牛肉コロッケを作れと迫られていた。

思案に暮れていたとき、社長は意外な事を言った。

「牛肉を抜いてみたらどうだろう」

工場長は戸惑った。

牛肉コロッケから牛肉ミンチを抜いたら牛肉コロッケでなくなってしまう。

「無理です。出来ません」工場長は思わず叫んだ。

「俺たちがやらずに誰がやるんだ。俺たちの手で作り上げるんだ!」

社長の熱い思いに、工場長は心を打たれた。肉屋の血が騒いだ。


「やらせてください!」

それから、夜を徹しての偽装ミンチ作りが始まった。

牛肉の代わりに、豚でも鶏でも、肉ならなんでもミンチにして混ぜた。

しかし、本物の牛肉コロッケの味は出せなかった。

工場長は、来る日も来る日もミンチと戦った。

いっそ、自分がミンチになれば、どんなに楽だろうと思ったこともあった。

追い詰められていた。

そこへ社長が現れた。そしてこうつぶやいた。

「発想を変えるんだ。牛は肉だけで出来ているんじゃない」

そうだ。血だ。牛の血があった。暗闇に光が射した気がした。

工場長は何の肉を入れたかよくわからないミンチに牛の血を混ぜてみた。

牛肉ミンチ特有の鮮やかな赤みが蘇った。

「これだ、これが探してた俺たちのミンチなんだ!」

牛肉抜き牛肉風味コロッケの誕生だった。

社長と工場長と従業員は、工場の片隅で朝まで飲み明かした。

工場長は、充足感に包まれ、涙が止まらなかった。

「社長、この涙も混ぜていいですか」工場長は言った。

「ああ、いいとも。塩っ辛くならない程度にな」


社長は自分のジョークに、肩を揺らして笑った

今日本屋さんでケータイ小説をちょっと読んだ。これは新しい。


というかここまで来たか、という印象をもった。


YOSHIさんの小説を読んだのだけど、話の内容より既存の小説と言われているメディアとの差異が気になり始めてしまい、違う意味で感動した。


個人的志向は別として「文学や文化に時間的優越性(権威や最新などの優越性)はない」と思っているので、これはこれでありだなと感じた。ネットとかで「文章が稚拙すぎる」等の批判を受けているみたいだけど、何故そのような稚拙な文章が百万部を越えるヒットに繋がるのかを考えないことには、ただの思考停止と信念吐露で終わってしまう。フィットできるか/できないかは別の話だ。


というわけで、ケータイ小説を読みながらパッと思いついたことを書く。


①携帯端末の縦スクロールという特徴(制約)があるため、文章と文章の間が詰まってない(詰まっていると読みにくい)。

②擬音の多用。マンガからの影響か。

③マンガのようなストーリーで、型が決まっており、「刺激→反応」がストーリーの基盤となっている。

④どことなくmixi文章に似ている。つまり文章と文章の間は「時間の経過」と捉えられている。

⑤簡素で読んだことあるような比喩が多い。


こう列挙すると、やはり購買層を絞ることによって出来た新しい小説の形のようだ。ちょっと調べると、どうやらケータイ小説の購買層は携帯端末に親和性が高い中高校生や主婦らしい。③と⑤の特徴の理由がわかった気がした。


多分「ダ・ヴィンチ」とかで特集が組まれていそうだけど、ラノベとケータイ小説の比較分析を行うと面白いのではないか。購買層とか知らべていくと、綺麗に差異化できるかもしれない。これを社会学者がほっとくわけないから、あと何年かするとそういう新書がでるだろう。極めてポストモダンな現象である、とかなんとか言って。


最後に個人的志向を書くと、とてもこれに金払う気にはなれない。これ買うぐらいなら、スタバで人間観察していたほうがよっぽど面白い。ちなみに田舎のスタバは面白いですよ。喫茶文化とカフェ文化の差異と融合を目の当たりにしてるみたいで。

遅ればせながらカート・ヴォネガットが死んだことを知った。


村上春樹に小六の時からドップリとはまっていた身としては、当然その作家の名前と作品に触れずにはいられなかった。まだ全部の作品を読んでいないけど、『猫のゆりかご』『スローターハウス5』は三回ずつ読んだ。「ボコノン、ボコマル」と「プゥーティーウィ!」っていうフレーズが頭から離れなかった時期もある。口に出すには勇気がいるんで、余計に頭の中でズッとループしていたんだろうけど。


その文体や天才的発想やらを誉めるのは、もう野暮なくらい有名なカートさんだけど、今日読み終えた『青ひげ』はあまり面白くなかった。読者の優位性は、近代の思想家が説き始めて以来、作家と読者のディスコミュニケーションの裾野を広げていったんだけど、それは別としてもあまり響かなかった。このことはもちろん、もちろん故人の評価をなんら傷つけることはない。


あと二冊、Book offにて100円で手に入ったカートさんの作品があるので、今から楽しみだ。作家でないから想像するしかないのだけど、『まだ読んでない作品が読む前から楽しみである、つまり気分を高揚させている』ということは、作家としては結構幸せでなかなか高い評価なのではないだろうか。とにかく黙祷、黙祷。


話は変わって、またまたyoutubeで見つけたナイスなPVを。双子っていうのは神話の時代からミステリアスで人智では捉えられない存在だったけど、なにを隠そう俺も双子が好きだ。好き、というか気になる。もちろん双子アイドルと言えば、断固「フリップフラップ」だ。なんの宣言なのかわからないけど「マナカナ」は嫌いなんで、一応。


http://www.youtube.com/watch?v=w5rwuOppnns


あと夏になると元気になるカリブの人たちのPVを。


http://www.youtube.com/watch?v=wP_fOEJv5ww&mode

mixiに入会して文章を書いていくうちに、何故かうまく消化できない気持ちがでてきた。


自分でもよく理解できないし、書いていくうちにパッと天気がよくなるように理解できるだろうと思ったけど、なかなかどうしてこれがうまくわかんなかった。


でもようやく理解できた。うまく文章にできるかはわかんないけど。


個人的な文章をネットに公開する。っていうのは不特定多数の人向けに書くブログと会員制の導入でブログよりは相手の顔がわかるmixi等のSNSに大別できる(掲示板は除く)。


この二つの文章は昔でいう日記ではないと思う。理由は、昔は個人的(つまり書くのも読むのも自分)な文章のコーパス化が目的の日記が、他人に向けて公開することを目的にする文章に変わってしまっているからだ。これはネットという技術的な要因が可能にした変化なんだろう。『一億人総批評家現象』とはよく言ったものだ。


両方の(新しい形の)日記を散見していると、なぜかブログは『何かを批評するエッセイのような文章』、『mixiは他人が見ることを意識した日々あった事の報告』のような文章が多いような印象を受けた。印象から論を進める危険性は十分承知して書くけど、この現象は『匿名性』と『共感』がキーのように思う。


簡単にいうと、mixiでは『匿名性』が薄められたために『共感』が必要になったのではないか、ということだ。


会員制により仲間内の交換日記が公開日記になったmixi内では、あれこれ批評し自分の考えを表明して、意見の対立や衝突をまねくよりは、日々あったことを簡潔に書くことで「そんなことがあったんだ~」とか「よかったね~」等の『共感』を得やすいようにしているのではないか。現実世界の「話を合わせる」状態に近い、というのが想像しやすいかも。これはもちろん「匿名性」がうすい相手とは対立したくない、という前程に立っている。


個人的にもmixi内でプレゼンのような文章を書くよりは、日々あったことを書いていったほうが反応がよかったりする体験があるので、余計にそう感じてしまう。


個人的にはそのことが一番フィットできない。他人の日々あったことなんて正直興味がない。それよりもその出来事への感想や、それらの日々の出来事などの積み重なりによって醸成された、その人の考えや個性、趣味志向等のほうに興味がわく。


そんなこと書きながら自分も日々のくだらないこと書いてるじゃん。って言われそうだけど。優れたエッセイにはその人の人柄や個性がでるのは周知の事実なわけで。そんな文章を書くための文才がないのは勘弁してください。精進します。


でもmixiを退会することはないと思う。コミュ経由の情報がすごいからだ。

そのためだけに居つづけるのもどうかと思うけど。