このところ、少しずつ仕事がある。
が、それは少し「在る」だけで、ほとんど無いのと結局変わらないんだけども、僕たち音楽家は国からも昨年の内に早々手を切られ、思考の止まってしまっている「大衆」からは議論の余地もないような扱いを受けている。
それを嘆いたり抗議したりする事はないし(今は無駄だし)、ただ大人しく自粛しながら、きっともう元に戻る事のない世の中の行く末みたいなものを漫然と眺めている山籠りの仙人のような暮らしぶりでやり過ごしている。
仙人はきっと皿を作ると割ってしまうけど、それはやっぱり籠っているからだと思う。

表現とは、自己の掘り下げによるものなのはもう誰でも知っている(知る事のできる)時代だけど、「我慢する事が美徳」という誤った高度成長期ヨロシク、バブルヨロシク、ちょっと今の資本主義の感覚とそれすら合ってないんじゃないかと思う事も多い。
歳上が歳下に意地悪して(ちゃんとシェアせず、押し付けがましく)組織というものが回る時代は段々限界がきていると言うか。
これから先それでは立ち行かない事がたくさん待ち構えていて、コロナ禍によってはたと立ち止まった人たち(以前とガラッと生活様式なり仕事のスタイルなり変わってしまった人たち)の意識改革みたいなものは若干目を見張るものがある。

その中から早くも「新しい表現」は未来に向かってどんどん噴出していて、それはコロナ禍があって生まれたものかもしれないけど、コロナ禍に関係なくずっと繰り返されてきた事のように思う。
今現場である論争、暗い部屋でモニターに並ぶ無責任な匿名に近い意見なんかも、はるか昔から延々と繰り返されてきた議題だ。
姿と形を変えてずっと同じものを追っているのは皆さんもお判りの通り、もし、今コロナ禍以前にそっくりそのまま戻る方法を模索しているとしたら、かなり窮屈な今後の人生を覚悟しないといけないと思う。

国に見放されても(税金と年金だけはしっかり取られるけど)、仕事が無くても、自分が何の為に今を過ごしているかも、全部どうにでもなる。
根性論は好きだけど、「根性論」という大雑把でぎこちない主観とムードに影響されてしまうヤワな軸ではもう立ち行かない。
若い人たち(例えば25歳未満)の人たちでも、早速の現場経験を取り上げられてしまって気の毒だけど、きっとこの先また苦労が待っている。
僕たちは微力でもそこに何かをシェアしなければならない。それも、決して押しつけがましくなく。
協力しないといけないと思うし、今ではまだ想像もついていないようなコミュニティにまつわる何かをきっともっと頑張らないといけなくなると思う。

それを諦めてしまえば、たちまちソーシャルディスタンスの名の下に独りぼっちだ。

僕の周りにも独りぼっちの人がたくさんいて(僕もそう)、だけど何とか手を取り合う努力をしているところだ。
話を聞く限りでは、今そういう人が多いようだ。
少なくとも、また一緒に弾きたい、音楽したい、と思う人たちは。
変にカッコつけたり、自信過剰であるとたちまち置いていかれてしまう。
素直に、謙虚に、誠実に、着実に、、
どれでもいいけど、もっと素朴に音楽を求めないと。
自分より中にしか魂は無いんだから、自分の中にはいろんなものが入っていないと。
嫌いでも、興味が無くても。
尾崎豊が今出てきても、多分全然売れないですからね。
それがまだ出来てない友だちと長電話して、僕もたくさん気がつく事があった。
綺麗事で締めたいわけじゃないけど、やっぱり持つべきものは友。
きっとそいつもこの先いろな方向に持っている懐中電灯の灯りを向けながら進む事になると思う。
僕も自分が正しいかどうかまだ今は全然判らない(責任持てない)けど。
志が同じであるならば。