人はどのような時、「主体的」になっているか。
考えてみれば、野生の動物は皆主体的である。生き延びるために常に主体的に行動する必要がある。
対して、常に食べ物を与えられる家畜は主体的ではない。主体的ではないことを前提に生きる。
余暇時間が与えられた幼児の多くは主体的に行動する。思った通りに行動しようとする。
人間の主体性のコアには「遊び」がある。
面白いと感じるから、楽しいと思うから行う「遊び」がある。
モノを作る時、主体的である。
折り紙を折る時、主体的である。
粘土をこねる時、主体的である。
料理を作る時、主体的である。
仕事を夢中でする時、主体的である。
絵を描く時、主体的である。
声を出して歌う時、主体的である。
音楽に合わせて踊る時、主体的である。
スポーツの試合に臨む時、主体的である。
以後・将棋で対戦する時、主体的である。
「ビジネス」を立ち上げる時、主体的である。
ギャンブルで、自分の金を掛けてする時、主体的である。
場合によっては、「ファン」や「推し」になって応援することも「主体的」である。
愛する人と営みを行う時、主体的である。
まして、それが子どもを作ろうとする時、超主体的になる。
そして、世の中をできるだけよくしようとする時、主体的である。
以上のどこまでが「遊び」で、どこからが「人間的営み」と言えるのかはわからない。
わかるのは、子どもの「遊び」が「主体性」の中にあり、やがてそれが本物の『主体性』に結実していくと言うことである。
しかし、そうして育ったはずの子どもたちが、学校教育の1クラス三十人の枠組みで急に全体行動を強いられると、即座に「アレルギー反応」を起こす者と、徐々にそれが本当につまらないものだと直感してしまう者が出てしまう。
子どもの「主体性」を配慮する「場」がないからである。もしくはその余裕がないからである。
そうして真面目にその仕事を遂行しようとする教師たちと対立してしまうことになる。
もしくは楽に仕事をさせないことに憤る教師たちと対立することになる。
また、「主体性」が「自由」と同等のものであり。それは他者の「自由」を害さないことが前提になっていることがまだわからないままの子どもは、集団から浮き、時には攻撃の対象になることになる。
子どもを可愛がって育てる、もしくは主体性を大切に育てる。
その結果、集団生活に馴染めない、ちょっとのことで「嫌」を決定する子どもが出現する。
この原因を文科省は、「家庭教育のせい」とする。
そうではなくて、そうした新世代の子どもたちをどうやって教育していくことができるのか、どのようなシステムの構築が必要なのか、それを提示するのが彼らの仕事であることがわからない。ここにおいては中教審も全く役に立たなかったことが明らか。彼らは名前と肩書きだけの「識者」であったことになる。