死体はモノか? | ヴァージニア日記 ~初体験オジサンの日常~

死体はモノか?

おとといローチさんのインタビューを聞いていて考えたことの続きを書いておこう。

(少し話が難しくなるかもしれないが、できるだけ学問的な用語を避けて書こうと思う)


もちろんローチさんは生命倫理学者ではなくジャーナリストなので、彼女の本の目的は

「人間の死体が(現在アメリカで)どのように利用されているか」という現実をレポートする

ことであって、「人間は、人間の死体に対してどのように接するべきか」とか、

「人間の死体をどのように利用してはいけないか」ということを論じることではない。


とは言え、(文化的な差異の影響も含めて)

人々のある種の本能的感情を刺激する(がゆえにタブー化されることの多い)このテーマ

を扱う限り、そうした倫理的な問題を素通りするわけにもいかない。



ローチさんのインタビューで私がもっとも興味深かったのは、


「死体をこのようにさまざまに利用することが、

人間性あるいは人間という存在に対する畏敬の念を損なったり、

それをむしばんだりするのでは?」


という懸念に対して、彼女が述べたコメントであった。

(インタビューでローチさんが使ったのは、respect for humanity, respect for human beings

という言葉だったように思うが、生命倫理などでよく使われる「人間の尊厳」という言葉で

言い換えてもいいかもしれない)

ローチさんは、これに対して次のように述べた。

「もちろんそういう面があることは否定できないとは思う。ただ、「別の面も」あると思うんですよ。

たとえば、飛行機の墜落の衝撃を調べる実験に死体が使われた、としますよね。

こんなことをして、その人の人間性をrespect(尊重)していないではないか、というのはもちろん

一理あるんだけど、逆に私たちは、この人、この死体のことをrespect(尊敬)の念をもってみて

いる、ということも言えるんじゃないかなって思うんです。

だって、墜落することがわかっている飛行機に自ら乗り込んで実験台になるなんてことは、

「生きている」私たちにはとてもできない、英雄的な行為じゃあないですか!

死体は、私たちにはとてもできないことをやってのけるスーパーヒーローなんですよ!」

(うまく聞き取れた自信はないが、まあ大体以上のような意味のことをしゃべっていた)



この問題は、実はたいへん根が深い。


つまり、結局のところこれは、死体はモノなのかどうか?

(あるいは、死体をモノとして(モノのように)扱ってもよいのか?

という問いに帰するからである。


もちろん、「死体なんかただのモノにすぎない」と言い切る人がいないわけではない・・・


が、


多くの人は、「死体はモノだ」と言われると、かなりの抵抗を感じるだろう。


とは言え、私たちがすでに、死体だけでなく(生きている人の)人体やその一部(臓器など)

まぎれもなく「モノ」化し、一種の「医療資源」化している(その一部は実際に商品化され

ている)社会に生きている、ということもまた事実なのだ。


たとえば、臓器移植。。。


いくらこの医療がさまざまな美名で飾られ、カモフラージュされようとも(たとえば、「愛の医療」

「いのちの贈り物」「いのちのリレー」など)、その本質が、人体を「機械」と見なした場合に、

臓器はその(交換可能な)部品=モノであり、それを交換するという原理に基づいていること

は一目瞭然である。


逆に言えば、臓器移植という医療の本質を支えるこの観念(臓器はモノである)が、

人々にある種の嫌悪感・不快感を引き起こしてしまうために、その埋め合わせ

して、それに過剰な、人間的な意味づけを与えないと、私たちは不安なのである・・・

つまり、私たちは「臓器はモノだ」と割り切って臓器移植医療を進めることはできないので、

そこに「愛の医療」だの「いのちのリレー」だのといった意味をそこにかぶせようとするのだ。

(このことについては、もうすぐ出る『バイオテクノロジーの経済倫理学』(ナカニシヤ出版)

という本に入っている私の論考の中で、もう少し学問的な説明がなされているので、ご興味

のある方は、そちらを読んでください)



死体の利用が人間性や人間存在へのrespect(尊敬・畏敬)を失わせるか、という問題

に対するローチさんのコメントも、結局これと同じことのように私には感じられた。


つまり、「死体はスーパーヒーローだ」という言い方は、「死体はモノだ」ということを否定

しているというよりは、実は同じことの表裏 なのではないか、ということだ。

「死体はモノ」とは言い切ることができない私たちが実際に死体をモノ的に利用する

(しなければいけない?)時には、必然的に「死体」を 過剰に人間化・人格化

してしまわざるを得ない、ということである。



面白いのは、ローチさん自身、死体の利用法についての本を書いた動機として、

自分が死んだときに、死体となった自分がどのように活躍するか、

ということを想像するとわくわくした」

という風に言っていたことだ。


考えて見れば、「死体となった自分」には、今生きている自分のような意識はないであろうから、

それを「自分」だと言えるかどうかは疑問である。


にもかかわらず、そういう「自分」を想像して、

その自分の「活躍(スーパーヒーローとなった自分!)」をイメージするということ。

これもやはり、死体というものに過剰な「人格的」「主体的」意味を与える

一種の思考トリックには違いない。


このことは、ローチさんの本の副題にもよく表れている。

英語の副題は、The Curious Life of Human Cadavers(人間の死体の興味深き生活)。

(←普通の意味では、死体に「生活」はないのだから)

実は、日本語の帯についている副題(?)はもっとシャレており、

ローチさんのアプローチの本質をよく衝いた傑作であると思う。


曰く、あなたは死んだら何をしますか?


(訳者のアイデアなのか、編集者のアイデアなのかわからないが、表彰モノである!)


つまり、

死んでから、自分の遺体(あるいは、自分の家族や愛する人の遺体)に

何をされるか(?)という風に考えたら、ほとんどの人は、それを「モノのように利用される」

ことに嫌悪感や不安感を感じるに違いない。


ところが、そこに「自分」がいて、「自分が何か(世の中の役に立つことを)やっているんだ」

という風に、それを「主体化」して考えたとたん、同じ風景がなにか違ったものとして

見えてこないだろうか。


ローチさんの本が、感覚的には吐き気を起こさせても不思議のないような現場の記述に

満ちているにもかかわらず、大笑いしながら読めるのは、彼女のユーモア(たとえば、

自分が死後に医学解剖に使われるときのために、「死体についての本を書いた女」という

名刺を準備しているとか)によるところも大きいが、そういう彼女のユーモアを根本のところ

で支えているのは、こうした視線の転換だと言ってもいいように思う。


誤解しないでいただきたいが、

私はなにもそういう視線をもってこうした問題を見るべきであるとか、

あるいは逆に、そういう視線はまやかしに過ぎないからだまされてはいけない、などと

ここで言うつもりはない。


ただ、ここにもやはり、かなり文化的な差がある、という気もする。

日本人の場合、たとえば脳死臓器移植にしても、あるいは死後の献体にしても、

こういう形で、自分が「これこれこういう姿で活躍している、世の役に立っている」

ということを主にイメージする人、というのは比較的少ないのではないだろうか?


むしろ、日本人の場合、そうして問題を一人称的に主体化してイメージするよりは、

「自分の家族がそういう状況になったら、自分はどういう気持ちがするか」

あるいは逆に、

「自分がそういう状況になったときに、家族がどういう気持ちになるか」

ということを考える人の方が多いのではないだろうか?


非常に乱暴に言えば、

西洋人が、死や死後というものを徹底的に「一人称」的に「自分の事柄」として

イメージするのに対して、日本人はそれをけっこう「二人称」的に、「自分と

周りの人々との間で起こる事柄」としてイメージすることが多いのではないか?


まあ、こういうことについては、最近はいろいろ学問的な研究や議論も行われて

いるので、これ以上あまり単純な印象論をぶつべきではないだろう。


一つ面白いのは、日本語の「遺体」という言葉である。

これは「遺された身体」、つまり「遺産」などと同じく、「遺族に」遺された身体、

という意味なのだろうか?(そういうことは気にせず、普段使っているが)


英語には「死体」を表す言葉がいくつかあるが(stiff, cadaver, corpseなど)、

「遺体」に当たるような言葉は(単語1語では)ないように思う。


だとしたら、日本ではそれを単純に「死体」と言わずに「遺体」と言うことの中には

大切な意味があり、死体もまた「人と人の間」の観点から、二人称的にイメージ

されている、と言えるのかもしれない。