ASBH大会 in Denver
シャーロッツビル周辺は今、紅葉真っ盛りである。
どこをドライブしても美しいので、少し郊外に出て、今まで通ったことのない道に車を進めるだけで、
いろんな風景を楽しめる。
でも、忘れないうちに、
デンバーでのASBH(直訳すると「アメリカ生命倫理と人文学会」)のことを
書いておこう。
今回は、自分の発表がないので、ある意味気楽に「高見の見物」というところ。
ただ、ほぼ3日間この学会に出てみて、しみじみと実感したのは、
アメリカの生命倫理の層の厚さ であった。
もちろん、それは必ずしも(特定のテーマあるいは原理的思索における)議論の内容
の「深さ」というのではない。 日本の生命倫理における議論の中には、ここでの議論
よりずっと深いレベルのものがあることも確かだ。
しかし、
多様な研究者達が集まって、議論を組み立てていく際の「密度」というか
議論の場となるサークル自体の厚みが全然違うのである!
本の展示販売会場である。
生命倫理関係の本を多く出している出版社が
並び、最新刊の話題書から古典的概説書や事典
まで、それぞれ20%~30%引きで買う
ことができる(もちろんカード、小切手OK、
自宅やオフィスへの郵送もしてくれる)
日本の学会でも、本の展示というのはたいていあるが、「一体どこでやってたの?」
というような片隅で行われていることが多い。それとは対照的に、この展示会場は
いわば学会会場の一番メインの場所(発表が行われる各部屋を出てくると必ず通り
かかるところ)に置かれており、ここが参加者たちの第一の交流の場になっている
のだ。
めぼしい新刊をざっと見るだけでも、(翻訳書などによって)日本で紹介されている
アメリカの生命倫理文献が、いかに偏っているか(そのメインストリームの抜粋と、
ある意味極端な思想を提示して「論争を呼ぶ」ような学者の著作だけか)がわかる。
日本で語られる「アメリカを中心とする生命倫理(バイオエシックス)はこれまで
・・・・・・・・であった」などという常套句に反して、メインストリームに対抗する多種
多様な議論がすでにわんさと出てきているのである。
議論の密度の違いというのは、結局のところ、人の密度の違いから来る
ところが大きい。
最初にバイオエシックス(生命倫理)という学問領域が制度化されたアメリカでは、
多くの有名大学にバイオエシックスセンターがあったり、バイオエシックスを専門
とする講座やコースが設けられている。
生命倫理自体がさまざまな学問的分野を横断する学際的側面を持つがゆえに、
こうした組織やプログラムのあり方も、求心的なものではなく、いくつもの中心を
もつ多面的ネットワークとなっていることが多い。
ちなみに、今回のデンバーの学会に参加したヴァージニア大学の研究者は約10人、
それも(私のいる)実践倫理研究所の他に、教養学部の哲学・倫理学講座、医学部
の医療倫理学講座など、それぞれ異なったところから来ていた。
(生命倫理で著名な研究者がいるような大学は、大体同じような感じであった)
それともう一つ。
この学会の厳しさを象徴するのが、参加者全員に配布された下のアンケート。
(10頁にもおよぶ冊子)
ついて、そのセッションの総評だけだなく、
セッションにおける各発表者の評価を
5段階で行うことが求められる。
評価があまりにも低いと、翌年に発表を
申し込んでも却下されることがあるようだ。
日本の学会でも、大会役員や学会誌の
編集委員が、担当を決めて各部会を見回り、
(特に若手研究者の)発表の評定をしている
ことはよくあるが、
参加者全員を対象にした、ここまでオープン
なアンケートというのは、見たことがない。
私が肌で実感した、アメリカ生命倫理の議論における「層の厚さ」というのは、
人の数だけではなく、こういうシビアな相互評価を通して培われていっている
ということもあるのだろう。