女性ファッション誌、大嫌い | 如何なる日の本に

女性ファッション誌、大嫌い

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女性誌「CanCam」12月号に載った刺激的な特集が、ネットで波紋を呼んでいる。特集
の名は、「モテ子の習慣vsブス子の習慣」。その中で、学生時代の部活が柔道、卓球、
陸上などならブス子と分類され、読者から「当てはまるのでショック」と憤る声が出てい
るのだ。
(略)
7ページにわたる特集の中では、「持ち物」「生活」「恋愛」「ボーダー」の習慣ごとにくっ
きりと色分けした。特に、衝撃的だったのが「ボーダー」の項目だ。

そこに8つある小項目のうち、「学生時代の部活」では、前出の3部のほかにワンダー
フォーゲル部、ソフトボール部、部活をしていない「帰宅部」をブス子サイドに分類した。
モテ子サイドは、テニス部、バドミントン部など6部。その理由として、部活にはモテる
イメージとモテないイメージがあるとして、「モテ子なイメージはテニス部などの女の
コっぽいソフトな体育会系! 逆にブス子は本格的すぎるもの」と言い切っている。

さらに、「カラオケで歌う曲」でも色分けした。ブス子の一番人気は、秋川雅史さん
が歌う「千の風になって」。(略)一方、モテ子の人気は、大塚愛さんの「さくらんぼ」
とaikoさんの「カブトムシ」で、「サラッとした軽さが男ウケ◎!」とした。

(以下略)


http://www.j-cast.com/2007/11/13013186.html


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少し前に西川史子女医が「ブサイクは生きる価値なし」と言って物議をかもしたことがある。

あの性格は作っているという声もあるが、上の言葉はおおかた本心だろう。

「ブサイクは生きる価値なし」が本当だとすれば、西川女医こそ生きる価値が無い。

あんな淫売婦に似た女、顔も性格も大嫌いである。


戦後の教育では殊に「人は生まれながらに平等である」という平等思想が徹底された。

だけども、そんなのは大嘘で誰一人として同じ顔が居ないことからわかるように人は平等ではない。

美人に生れれば幸運だが醜女に生れるとそれだけで不幸である。

その不幸を不幸とせずに生きてゆける人は聖人に近い。

とはいえ、本当の美人も本当のブスの一握りで大半は十人並みである。

その十人並みがみな美人に似たものになろうとしてあらゆる努力を惜しまない。

つまり、その努力をしないものは排除されるのである。

そしてそれを最も気焔を上げてやっているのが女性ファッション雑誌である。

女性ファッション雑誌はただひたすらにキレイになることを追及する。

同時にキレイでないものを蔑むことを忘れない。

西川女医と同じでブサイクは生きている価値無しとでも思っているのだろう。

上に挙げた「CanCam」の記事もまさにその典型といえる。


「CanCam」が言うには卓球部、柔道部、陸上部、帰宅部の女子はブス子であるらしい。

カラオケで「千の風になって」を歌う女子も同じ。

こんなくだらない記事、「CanCam」読者以外ならアハハと笑って済ませる。

誰もそんなこと信じないし、仮にその傾向があってもそれだけで美人かブスか判断できないからである。

「CanCam」読者も一緒に笑えばいいのに多くはショックを受けているという。

私ははじめ怪訝に思ったが少し考えてなるほどと膝を打った。

この記事を読んでショックを受けたと訴えた女子はすなわち「CanCam」読者で、「CanCam」読者の多くは「CanCam」の言うことを真に受けているから読者であるわけだ。

そしたらショックを受けるに決まっている。

酷いと言って憤慨している読者も結局、ブスを排除しようとしていることに変わりない。


私は「CanCam」に限らず女性ファッション雑誌はみな馬鹿だと思っている。

こういう雑誌が西川史子の如き勘違いした馬鹿女を大量生産していると信じて疑わない。

だって、あんな記事を書いたり、それを読んで一喜一憂しているんだもの、どう考えたって馬鹿だろう。

顔を磨くと同じくらいに品性や知性も磨いたら如何か。

そもそも顔も本当に磨けているのかも随分怪しい。

本人は美人になったつもりでも他人からみればビッチに見えること少なくない。

私が言っても信じないだろうから私の知っている美人の女性が言っていた。

その女性はファッション誌なんて読まない。

それゆえ、品性も知性も備わっており本当に美しく且つ個性的である。

いままで言い寄ってきた男の数は両手で足りない。


真に美しくなりたくばまづはファッション誌を捨てることから始めよ。