私がうつ病で苦しんでいたときは、
本の中に助けや共感を求めることが多くありました。

今となっては、それが本当に前向きで具体的な解決策になっていたのか?と
疑問に思うことはあります。

しかし、その当時は、わらをもつかむ思いで、
自分の精神のよりどころを探していました。

そして、そのような本に出会ったときには、
自分の魂も救われるようでした。

10年ほど前に出会った本を紹介します。

吉本ばなな 「体は全部知っている」文春文庫

体は全部知っている (文春文庫)/文藝春秋

¥497
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この本の内容は、あまり印象にないのですが、
あとがきに書かれていた、吉本ばなな氏の次の言葉に
共感を持ちました。


「文庫版あとがき」より


「ある時、自分の姿勢の悪さや、便の状態や、水分の摂り方、頭の熱さ、足の冷たさな
ど、体の状態があまりにも悪いので愕然としました。もちろん酒の飲み過ぎと仕事のし
過ぎ、したくないことのし過ぎ、ヒールの靴、化繊の服、何もかもをもう感じなくなる
ほどの状態でした。

 そして、もちろん倒れました。しかも今まで気力でおぎなっていたのに、どうにもな
らず、ばたんばたんと何回も倒れ、悲しくないのに涙が止まらない、そんな感じでした。
体がストライキに入ったわけです。

 まず食べ物を変え、生活を少しだけ変え、外反母趾に負担のかからない靴にし、よく
歩くようにし、酒を減らし、ストレスを減らし、自分のことを自分で守るようにしまし
た。肌もきれいにし、まぶたの震えもなおしました。ついでに脱毛までしたりして、そ
れはもう長い道のりでした。とにかくがんばりました。たとえ人に嫌われてもおかまい
なくです。

 その大改造の結果、三十八にもなったのに、大学生の時よりもずっと快調になりまし
た。」



ころを読むと、吉本ばなな氏も「うつ状態」だったんだなと思いました。

私も吉本氏と同じ感覚になり、
「人に嫌われても良い」から自分を大切に、自分を許そうと努めました。







この本に載っている、黒いアゲハの絵が、私を癒してくれました。
前職は人間関係がきっかけで、自分のうつ病は再発していました。
どこに行っても人間関係はついてくるというのは、頭では分かっていました。
でも、身体と頭が言うことを聞かなくなり、体調を崩してしまうのです。
恥ずかしいことだと自分では思っています。

さて、前職を退職する数週間程前から、辞める決意を固めて、
次の仕事のメドは立てていました。

友人に紹介してもらう、販売員の仕事です。
会社に属さない、自営業の営業マンです。

私は、前職を辞めた9月30日の翌日から新しい仕事を始めました。
仕事の先輩は、私の友人です。
精神的には、何の心配もなく、仕事を始めることができました。

数週間して、一人で営業を回ることができるようになりました。
この時は、フルコミッションの仕事でしたが、
幸いにも契約は普通くらい獲得でき、
他人の束縛を受けないので、仕事も楽しくできました。

不思議なことに、うつ病になって、前職の9月30日ギリギリまで苦しんでいたのに、
翌日の10月1日から、すっかり気分が楽になっている自分が不思議でした。


一番最初にうつ病になったときには、会社を辞めても、数ヶ月は不眠症などで苦しみましたが、
今回は、仕事をやめると、案外ピタッと症状が急激に和らぎました。

本当のうつ病になってしまうと、原因を取り除いても、しばらく症状は続くのだと思います。
うつ病の一歩手前(隠れうつ病の重症なもの)だと、原因が取り除かれると、
症状はグッとマシになるような気がします。


しかし、私の場合、マシになったとはいえ、100%回復したと自覚できるものではありませんでした。
結果的に、うつ病というものは、100%完治するものではなく、だいたい90~95%くらいに“復活”するものである、
という病気なのだと思います。


良く出される例ですが、骨を折っても、100%治るというのではなく、
少なからず、また同じ部分が折れる可能性もあります。100%ではありません。

私が後に、「もう、うつ病は95%は回復したな」と自分で認められたのは、
発症から4年経った、2007年6月でした。
しかし、これでも、うつ病を甘く見てはいけません。
上手に付き合っていかなければなりません。それは、後述します。

とにかく、この復職第2弾の仕事は楽しくでき、
これがきっかけで自営業の道を歩むことになりました。
そして、ここで昔勉強したIT関連の知識が活用できました。

2005年10月から、気ままに自営業をしていました。
給料的には、勤めるのと変わらないくらいありました。
自分で色々とビジネスを考え、実行することには全くストレスを感じませんでした。
この頃はまだ独身だったので、その分、気が楽だったのかもしれません。

自分のありのままを出して仕事をしているときに、
いまの妻と知り合いました。人は、頑張って探しているときには出会わず、
自分の思うままに生きているときに、探し物に出会う・・・という言葉を聞いたことがあるのですが、
本当にそのような感覚でした。自分にとって、かけがえの無い女性と出会えました。

結婚しようという話になり、その場合、私が自営業者だと義父母が心配するので、
どこかに就職しようと私は考えていました。

折りしも、私のクライアントの会社の社長が、
私のことを気に入ってくださり、
「ウチの会社に入りませんか?」と声を掛けてくれました。

私は、この機会を頂き、その会社に入社し、
そして2008年にめでたく結婚しました。
この間、うつ病的なことは一切身体には出ませんでした。

2007年、2008年ころから、私はうつ病を患ったことがあると、
何人かの友人・知人には公にしていました。

そのことで、友人の友人や、私の話を聞いた人から
うつ病についての相談を受けるようになりました。

現時点の私は、その人が今「うつ病に向かう、どの辺りの状態か」を
大体想像がつきます。その人の表情を見ると大体分かりますし、
話を聞くと、ほぼ見えてきます。


私が体験を話し、その方々のお話を聴いている中で、
お互いに浄化される部分が出てき、現実の原因を外してみたり、
どうすることもできない苦しみを、開放しいていく工夫をしたり、
そのようなお話をさせて頂いております。

結局は、「待つ」ということが大事なのではないかなと思います。
時を「待つ」。

待たないと、花は咲きません。
どんなに何回も水をあげても、時期が来ないと花は咲きません。
うつ病の回復も、そういうものではないかと思います。


人生のある時期、「待つ」ということを受け入れられると、
その間に自分らしい生き方もできるし、
新しい出会いがあるかもしれません。

うつ病は、特殊な状態ではなく、
今の日本では、うつ病になる方が「自然なこと」と言えるかもしれません。
私は、そう思っています。

まじめで、責任感が強い人がうつ病になりやすいと言いますが、
そのような人を「揶揄する」風潮があります。

「まじめすぎるのよ」「もっと楽に生きたら?」

大切な家族がうつ病になると、なかなかこういう軽い声掛けはできません。
私は、うつ病になって、本当に色々なものを発見しました。
そういう部分を、私はうつ病の皆様に、発信して行きたいと思います。

ちょっと話はずれましたが、まだ続きます。
2004年1月から実家で療養し、2005年1月になって、「もう大丈夫だろう」と思い、
新たな就職活動を始めました。

もうすっかり、うつ病の症状もなくなり、
明るく前向きに暮らせるようになっていました。
薬ももう飲んでいません。

次の仕事はどうしよう・・・と考えた末、
「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」ではないですが、
もう一度、営業職(外資系)をチャレンジしてみたくなりました。

同級生の給料にも遅れを取っているし、
自分もまだまだバリバリ働きたい。
ここで、負けたくない!という意識がありました。

そんなこんなで、再度、東京のある会社の面接を受け、
幸いにも採用されることになりました。
2005年3月のことです。
33歳になっていました。

小さな会社ですが、
外資系の会社で、扱っている商品も世界的に認められているものでした。

私は、技術営業職で採用されました。
メンバーは、私以外の先輩が3名(全員男性)です。
給料も良いです。外国にも出張があります。
英語も使わなくてはいけません。

私は、大いに希望を抱いて、再度東京に住むことになりました。

そして、出勤初日が終わったとき、、、

「俺はここではやっていけねー」

と感じました。

会社や人間が、初日から嫌だった訳ではありません。
原因は、いくつかあります。

・東京の通勤ラッシュ
・会社というシステム

たぶん、強烈に身体に違和感を持ったのは、この2点です。

それもそのはず、1年半ほど休養して、田舎に引っ込み、
超自然生活を送っていた自分には、この劇的な変化は
耐えられませんでした。


この時点で、うつ病を発症して約2年(うつ病と診断されて約1年半)です。
自分では、99%回復していたと思ったうつ状態ですが、
この出勤初日に、いきなり再発した感じになりました。

(それでも、最悪の時と比べるとマシでした)

「これでやっていけるかなあ~」というのが正直な気持ちでした。
こう思う時点で、やっていけないと思います。

案の定、だんだん仕事をやっていくのがキツくなりました。
何より、社内の営業マン同士の人間関係が心の重しでした。
先輩が意地悪で、自分に嫉妬しているように感じ(実際そうであったと思うのですが)、
随分、先輩にパワハラを受けました。
もしかして、これは自分がそう思っているだけで、
自分とは違う人だったら、特に何も感じず、うまく溶け込んで行くのかな?とも思いましたが、
私はかなり限界でした。

勤め始めて3ヶ月後には、もうやって行けないなあと感じていました。
5ヵ月後には、完全に不眠症になりました。
夜中に幻聴が聞こえ、目が覚めました。


これまでで一番ひどい状態になりました。
夜中に目を覚ますと、このままどこかに連れて行かれるのではないか?
と思うほどの恐怖を、何かに対して感じていました。

私は、街灯の明かりの漏れる真っ暗な部屋の中で、
正座をしながら祈っていました。

これが何日も続き、
会社を遅刻するようにもなりました。

「邪気を祓うために、剣のペンダントをした方が良い」

と女友達に言われ、そのとおりにしてみたり、
宗教書や、宗教、心霊現象、先祖、その他何でものスピリチュアルな世界の力に
頼るまでになっていました。

それでも、事態は良くなっていきません。
毎日毎日を何とかこなして生きているだけです。

表情もまた死人のようになってきました。
周囲の人が、「大丈夫?」と声を掛けてくれるようになりました。

それでも、まだ、社内の営業仲間の先輩たちとの関係も上手く行かず、
最終的に、2005年9月、復職して6ヶ月で、退職することになりました。

この時は、もう完全にうつ病が再発していました。
東京の主治医の先生のクリニックに再び通い始め、
薬を毎日飲んでいました。

薬は、飲んだら気が楽になると期待して飲むので、
ついつい依存的になってしまします。
これが、依存症につながり、
薬で余計に頭が麻痺し、
さらに悪化を辿るというのが私の体験で言えます。


私は、自分が自信を無くし、
恐怖から逃げるために死にたくなり、
そして、恐怖と戦うために攻撃的になる自分を認めていました。


このようにして、私の復職第1弾は、
半年で幕を閉じました。
療養中にできることは何でしょうか?
これは、私にとっては、「本当に自分がしたいこと。自分が本当にワクワクすることを行うこと」です。
つまり私にとっては、読書、ギター演奏、文筆活動、心を許せる友人との語らい、です。

実際に、私は、療養生活中に「小説」を書いてみました。
もともと小説を書いてみたいという願望があったので、懸賞に応募すると言う形で小説を書きました。
題材は、自分の東京での体験と、うつ病で見えてきた心の部分を織り交ぜた小説です。
内容の面白い面白くないはともかく、小説を書くことによってのメリットがありました。

それは、自分をかなり「客観視できた」ということです。

小説を原稿用紙100枚書き上げるのに3ヶ月かかりました。
登場人物を設定し、場面を考え、台詞を考え、そんなことをしているうちに、
自分の悩みが薄まっていくことが感じられました。
これは結果的にとてもよいリハビリでした。
もし、今現在なにか悩みを持たれている方は、小説風に書いてみるのをお勧めします。

あとひとつ、療養中にお勧めしておきたいことがあります。

新しいビジネススキルを身に付ける、ということです。
私は、この時期にIT関連の勉強を始めました。
この頃に通っていたカフェの店長から、
「ホームページ作れる?」と聞かれて、
作ったことは無いけれど、どうせ時間があるから作りますよ、
と返事をしました。

それがきっかけで、ホームページの作り方を本や人から勉強し、
最終的にそのカフェのホームページを完成することができました。

これは、自分のキャリアチェンジにとって、とても良いきっかけになりました。
それまで、営業や人材育成に興味を持って、主に営業職の仕事をしていましたが、
うつ病を患ってから、営業職を普通にやりこなす自信が無くなり、
本当は、静かにコツコツする仕事が向いているのかなと思うようになっていました。

別にハイテンションである必要はないのかもしれませんが、
営業の仕事は、自分みたいな繊細すぎる人には向いていないなと感じていました。
繊細だからきめ細かくできる対応もあるのですが。。。

とにかく、この時期に、IT系の仕事ができる自信がつきました。
なので、うつ病での療養中には、これまでと違った仕事のスキルを身に付けるのが、
今後の職業選択にとって可能性を広げるのではないかなと思います。

経験もできるだけ、この時期に積むと有利です。
もちろん、うつ病を治すことが優先順位第一位ですが。
2004年1月から、実家のある片田舎で両親と暮らすようになりました。
傷病手当金を頂きながら、ゼロに戻った気持ちで暮らすようになりました。

平日はできるだけ太陽を浴びるようにしました
そうすることで、免疫力も高まり、気分も良くなるからです。

親父と一緒に海を見に行ったり、両親と一緒に山の中を歩いたり、
実家の横で畑仕事をしたり、夜は読書とギターを弾いたりしていました。

近所の目がありましたが、「資格試験のため勉強している」という噂が勝手に流れていたので、
気にせず生活していました。

月に一度、傷病手当の手続きのために、東京の心療内科を訪れました。
信頼できる先生でしたので、引き続き、東京の先生にお世話になっていました。

先生から次のように言われたのが印象深いです。
「一度うつ病になった人は、また将来うつ病になるかもしれない。
だから、人生をリセットしたと思って、これから生きなおした方が良いですよ。
仕事も、今までのような仕事でない方が良いかもしれませんよ。」


後に私はこの言葉を何度も何度も思い出すことになります。
うつ病は、治ったと思ったときが怖いのです。
しかも、治って何年も経ったと言えども油断はできません。
2004年の1月に入って、急に会社から「解雇」の手紙が実家に届きました。
「もう少し休め」といった45歳の先輩(社長)からの手紙です。
「もう3ヶ月休んだから、解雇にします」と、
一方的に解雇にさせられました。


初めから、彼はそれを狙っていたのかもしれません。
私は、悔しい気持ちになりましたが、
「もうこの人とは仕事を一緒にやっていけないな」と踏ん切りがつきました。

このようにして、私は会社を首になりました。
あとは、傷病手当金と失業保険で食いつないでいくしかありません。
しかし、立ち上げたばかりの会社で、会社に在籍した期間が短く、
失業保険はもらえませんでした。(詳しくは忘れましたが、傷病手当金で生活していました)

もう東京では、一人暮らしできる資金はありませんので、
関西の実家に戻りました。

両親とも、うつ病に関しては、まったく無知でしたが、
うつ病に関する本を手渡し、読んでもらい、
少しばかり理解してもらいました。

それまでは、「何かに取り憑かれているのとちゃうか?」と言われるほど、
うつ病に関して無知でした。

あと、話はそれますが、
「がんばれ!」と声を掛けられるのは、本当に苦しかったです。
頑張って頑張ってもどうしようもできないのに、
さらに頑張らなければならないのか?!と感じ、
「がんばれ」と言われると、心が何度も折れそうになりました。


やはり、周りの中では、うつ病のことを理解してくれない人もいます。
あと、うつ病患者は、苦しくなって、何度も何度も人に理解と助けを求めることがあります。

そんなとき、相談された健常者は、
内心うんざりするのでしょう。「俺だってそんな経験あるよ、でも頑張って乗り越えたよ」と
吐き捨てるように言われたこともあります。

私は「俺のうつ病のことが、理解されていない・・・」と感じ、
泣きたくなりました。

最終的に、実家で静かに暮らせるほど、
両親には理解してもらい、感謝しています。
2003年10月から会社を休職しました。
朝起きても、会社に行かなくても良いし、
軋轢のあった45歳の先輩(社長)にも会わなくても良い、
それだけで、ストレスはだいぶ解消されていたのだと思います。

ただ、この頃の自分は、まだ、
「1ヶ月の休職後は、元気になってまた以前のように仕事をするぞ」と
当然のように希望を持っていました。

「いつかは自然に治るだろう、ちょっと落ち込みが激しかっただけだ」と
軽く考えていました。

休職期間中は、ゆっくりと過ごしました。
私が好きな都内のカフェで、好きな本を読んだり、
音楽を聴いたり、友人と会ったり、田舎に小旅行に行ったりして、
随分とエネルギーがチャージされてきました。

この時に思ったのは、これまで仕事のために、本当に好きなことを
じっくりやってこなかったなあ
、という事です。

本を読んだり、ギターを弾いたり、文章を書いたり(エッセイを書くのが好きでした)、
このようなことを休職期間中にやっていました。この時間は、とても幸せな時間でした。

約1ヶ月が過ぎようとしたところ、会社の45歳の先輩(社長)から電話がありました。
「もうあと2ヶ月くらい休みなさい。うつ病は長引くから。」
そして、「傷病手当というのがあるから、それを利用するようにしてくれ」
ということでした。

これは、その45歳の先輩が、会社の資金繰りを心配して、
私に提案したものでした。

傷病手当は、病気で会社を休職した者に
療養中の生活保障として支給されるお金のことです。

私は、主治医とも相談し、もう少し休職して療養することにしました。
休職後1ヶ月がたち、時は11月に入っていました。
結果的に11月、12月は、東京で暮らし、
気分もゆったりしてきました。

その当時から、薬は処方されていましたが(何を飲んでいたかが現在不明)、
あまり自分には効いているとは思いませんでした。
後で分かることなのですが、実は、そのとき既に薬に「侵されて」いたようです。
薬を飲みすぎることで、若干薬漬けになっており、薬にコントロールされる状態になっていたように思います。
そして、ある日、医療業界で仕事をされている年上の知人が、私の表情を見てこう言いました。

「表情が死んでいる。一度、心療内科に行ったほうがいいよ」

私は、「えっ?」と思いました。
これって病気なの?って初めて認識しました。

「うつ病かもしれないから、病院で診察してもらったほうがいいよ。知っているところ紹介するよ」

そう言われて、何となく安心した自分がいました。

「そうか、これは病気かもしれないんだ・・・自分の頑張りが足りない訳ではないんだ」

折りしも、45歳の先輩(社長)からは、「1週間ほど休め」と言われた時であり、
その休みを利用して都内の心療内科に行きました。

1件目に行った心療内科は、自分で探したクリニックでした。
平日の夕方でした。入室したクリニックの待合室は、
古い感じのインテリアで雰囲気が暗かったです。

先に座っていた40代くらいの男性は、壁に向き合ってじっと座っていました。
その光景が何やら、精神を病んだ人間の悪いイメージと重なり、
自分はそういう風に見られたくない、といたって普通を装いました。

しばらくして、診察の順番が回ってきて、
もう年配の先生にいくつか質問され、
「抑うつ状態」という風に診断され、
診断書をもらいました。

そして、薬を処方され、そのクリニックを後にしました。
本当にあっという間に診断されたので、あまり印象に残っていないです。

薬は飲んでみましたが、何も効いていないように思いました。
相変わらず、不眠は続き、イライラは直っていませんでした。
そして、もっと強い感覚は、「もうこの社会に適応できない。自分は生きていられない」
という、自信喪失感、劣等感
でした。

この頃は、「ネクタイ」をしたビジネスマンを見ると、すごく気分が悪くなりました。
朝起きて、テレビをつけると、ニュース番組で、ネクタイをしたキャスターや司会者が
必ず映ります。

私は、そのネクタイ姿がとても嫌で、そして、知った風に難しいことをコメントする、
時には、人をバカにしたように(見える)コメントをするコメンテーターが、
嫌で嫌でたまらず、すぐにテレビを消していました。

数日して、今度は2件目の心療内科に行きました。
こちらは、例の、私に心療内科に行くように勧めてくれた知人が紹介してくれたクリニックです。

こちらのクリニックは、とても清潔感のある明るい待合室で、
気分が落ち着きました。先生はそのとうじ40代の男性の方でした。

その先生は、私のこれまでの経緯を丁寧に聴いてくれ、
共感してくれました。いま思えば、これはコーチング技法の一種なんでしょうが、
ここで初めて、「自分を理解してくれる人がいた」と嬉しくなりました。

先生は、これはもう「うつ病」ですよ、と断定して言って下さり、
1、2ヶ月は仕事を休むようにアドバイスをしてくれました。
私は、さらに気分が楽になりました。

そして、診断書を書いてもらい、
それを会社に提出することにして、
1ヶ月休職することになりました。

私にとって良かったことは、
自分の周囲に「うつ病なんじゃない?心療内科に行ってみたら?」と
アドバイスできるくらいに、うつ病の知識や理解がある知人がいたことです。

(あとで知ったのですが、その知人の義母はうつ病の患者でした)

これは今から11年ほど前(2003年)の日本社会での話ですが、
それ以降、少しはうつ病に関して啓蒙されているかと思いますが、
2014年の現在でも、もっともっと
うつ病の知識や意識の、社会への浸透が必要だと感じています。
私はとても温厚で、優しい、癒し系の人間だと言われます。
しかし、31歳当時の、うつ病と発覚する前の自分は、真逆の人間となっていました。

・すぐに怒る
・人の怠けるのが許せない
・威圧的な態度の人が許せない
・とろい人が許せない
・歩くのが遅い人が許せない
・人をバカにする人が許せない


そんな風に、強烈に感じていました。人間が皆、裏表があるように思え、
人の親切や優しさも、素直に受け入れられませんでした。
特に、自分でも怖いなと後に思ったことは、
駅の階段などで、前を歩く人が遅かったりすると、
後ろから背中を蹴飛ばしたくなる衝動に駆られることでした。
その当時は、東京に住んでいたので、電車に乗るたび
そのような妄想に駆られました。相手は誰でも構わずです。
恐ろしいことです。

この時点で、すでにうつ病にかかっていたのだと思います。

完全に私自身がおかしくなったきっかけは、例の45歳の先輩の言動でした。
普段から人を管理することがきついその方が、ある日、私が行った報告に不満を持ちました。
その日以来、その先輩は、何かあるごとに「お客様との会話を一言一句報告して!」と
威圧的に私に命令するようになりました。
休日にも先輩から電話がかかってくるようになり、それがだんだんと恐怖に感じるようになりました。

人を小ばかに、諭すように説教され、自分はどんどん萎縮し、
身体が震えてきました。先輩の目すら見ることができなくなり、
会うのすら怖くなりました。そして自分の中の自信が急に崩壊していきました。

オフィスで仕事の電話をしていると、私の声が小さいのでしょうか、
電話先の相手に、「お声が遠いようで・・・」と何回も指摘されるようになりました。

また、判断力が低下し、普段は絶対間違えることのない単純業務でも
間違え
たり、それをまた45歳の先輩に指摘され、咎められ、すっかり廃人のようになりました。
その当時は、45歳の先輩の言うことを忠実に守ろうとして、
失敗しても、
「自分が悪いんだ。自分の力が足りないんだ。」
「これ以上、他人に迷惑を掛けたくない!」
という気持ちが強かった
です。
しかし、そう思えば思うほど、自分が惨めになっていたのも事実です。

食欲も無くなりました。
人にも相談することはありませんでした。
まさか自分が「うつ病」だとも思わなかったし、
うつ病について、何も知識がなかったので、連想すらしませんでした。
アパートに帰宅しても、やることと言えば酒を飲むこと。
酒を飲むと、身体が少しリラックスでき、そしてハイテンションになりました。
「もっと頑張ろう」という前向きな気持ちにもなりました。

(今振り返ると、これはとても危険な状態です)

夜は遅くまで眠りにつけず、夜中に何度も目が覚めました。
脳が完全に覚醒している状態でした。

そして、出勤前にだらだら起き、ぐったり疲れている自分がいました。

このような状態が約3ヶ月続きました。この3ヶ月の中に、
仕事以外では、女性問題が勃発しました。
ひらたく言えば、女性に振られました。

すでに、おかしくなっていた私は、女性に安楽地を求めようとしたのだと思います。
これまでも親交のあった女性と仲良くなり、そして、すぐに喧嘩別れしました。
歯車が急に狂ったように、関係がおかしくなりました。私はとても人間否定された気分になりました。
それほど、当時の自分はおかしかったのだと思います。

又同時に、金銭的な問題も心を悩ますものでした。
給料が不安定になり、自分でも知人から借金をしなければならない状態に一時的になりました。

このように、仕事・男女関係・お金の問題が一気に降りかかっていました。
人間をうつ病にさせるのは簡単です。
複数の大きなストレスを、短期間のうちに同時に与えれば、その人間はうつ病になる可能性が高いです。
鬱病を発症したのは、31歳の時になります。
当時はまだ独身で、彼女もいませんでした。
していた仕事は、貿易会社の営業職で、ちょうど1年前(30歳の時)に、
その当時在籍していた別の貿易会社を先輩2人(42歳、45歳)と独立して
3人で新たな貿易会社を立ち上げている最中でした。

仕事は忙しく、毎日遅くまで営業や資料作りの仕事をしていました。
先輩2人(42歳、45歳)は、42歳の方が同じ営業職。
45歳の方が、技術職兼社長という肩書きでした。

一回り以上の先輩方と仕事をしていましたが、
特に違和感を感じることはありませんでした。
ただ、社長となった45歳の方は、人をバカにする癖のある、
それでいて、権力や名声に弱い人間でした。
そういう方でしたが、人間的な部分と仕事の部分を切り離して
接するようにしていました。

会社を立ち上げるというのは、資金的にも時間的にも
プレッシャーを感じるもので、私自身も無いお金を工面して生活していたので、
早く結果を出したいと焦っていた部分もあります。
それ以上に、その45歳の先輩は、焦っていたようです。

この時点で、うつ病を発症する「環境」は既に出来上がっていました。
自分の体験で分かったことですが、
うつ病は外部からの「ストレス」の「頻度」と「大きさ」で突然に発症するものだと感じます。