〈Ⅰ〉中沢新一「日本の大転換(上)」-1.津波と原発 | 社会人研究者の奮闘記

〈Ⅰ〉中沢新一「日本の大転換(上)」-1.津波と原発

 人類学者の中沢新一が『すばる6月号』(集英社)に緊急寄稿した「日本の大転換(上)」は、東日本大震災における津波被害とそれに伴う福島第一原子力発電所事故を生態圏と外部エネルギーという根源的な視座から再考し、現代資本主義と原子力発電という深いレベルで類似性のある文明形態の危機について警鐘を鳴らしている。


 人類のエネルギー革命と一神教の原理、市場経済が社会を包摂した現代資本主義に通底する原理の問題を抉りだし、技術論をはるかに超えた深い哲理が濃縮された論稿である。


 以下、私的な整理のために、章ごとに連載(次回からは、2.一神教的技術、3.資本の「炉」)し断片的なエッセンスだけを記すことにするが、是非とも原文に触れて頂きたい。


1.津波と原発


「私たち人類は、ほかのあらゆる生き物たちといっしょに、地球の表層部(地殻)を覆っている、厚さわずか数キロメートルにみたない、ごく薄い層にかたちづくられている『生態圏』を、自分たちの生存の場所としている」(185頁)


 地震はこの生態圏の直下で起こる巨大なエネルギー現象であり、人間がつくりあげてきた人工的な世界や、動物や植物や鉱物の形成してきた生態系の秩序を破壊する。それがおさまった後、生物は生態系の秩序を回復しようとする活動を再開し、人間は繰り返し地震や津波に襲われても、そのたびに自分たちの世界を再建してきた。


 ところが、原発に深刻な事故が起こって大量な放射線物質が飛散すると、生物はその土地で長い間生存することが困難になる。その土地は、人間にとっての生態圏ではなくなってしまう。


 それは、原子力発電そのものが生態圏の外部、つまり地球を包み込む「太陽圏」に属する高エネルギー現象を地球上で発生させる技術だからである。人類が最初に原子炉の運転に成功したのは1942年であったが、じつはこの技術は17億年前のアフリカ・ガボンの鉱床に展開されていた一つの実験を再現したものに過ぎなかった。


「原子力発電は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核分裂の過程を『無媒介』のままに持ち込んで、エネルギーを取り出そうとする機構として、石炭や石油を使ったほかのエネルギー利用とは、本質的に異なっている」(189頁)


 石炭や石油は、太陽のエネルギーを植物が光合成により「媒介」されて生態圏にもちこまれ、長い年月を経て地中や海底に堆積されたものだ。そうした植物がバクテリアなどによって分解・炭化され、化石化したものが石炭や石油である。


 ところが、原子炉はこのような生態圏との間に形成されるべき媒介を一切へることなしに、地球がまだ太陽の一部であった頃の余韻をたたえる高エネルギー現象を無媒介に生態圏のうちに設置した技術である。生態圏の外部から無媒介に持ち込まれた現象を扱う装置として、原発は人類のエネルギー革命の歴史のなかで、類例のないテクノロジーなのである。


 原発の「安全神話」と言うけれど、本来の神話的思考は無媒介の現象に対してはまったくのお手上げなのである。なぜなら、神話とは、媒介のメカニズムをつかって生態圏の出来事を解釈する哲学思考のことを言うからである。


「それ以降に発達したすべての哲学にも、この媒介の本質は保たれている。その意味で、人工原子炉の建設とそれに続く原爆の製造、さらに原子力発電の発達は、それまでの哲学にたいして、深刻な挑戦を突きつけてきたのだった」(190頁)



<私見>


 私たちは「生態圏」内にいて、そこで起こる社会現象に翻弄されながら生活をしているが、大地震などの自然災害が起こると自然の脅威を感じる。ただし、自然といっても生態圏内にある身近な自然と太陽系など無限な宇宙空間で起こる広義の自然現象は相関関係があるものの、まったく異質な出来事である。


 原子力発電のテクノロジーは、生態圏のなかに媒介のメカニズムのない外部エネルギーが持ち込まれたもので、生態圏内の自然現象にはない怖ろしく高いエネルギーが内在し自律している。その異質な存在に対する脅威について警告していた科学者やジャーナリストはいたが、平時にその言論を注目している人は必ずしも多くはなかった。自らの身近な問題として脅威を感じないと、ヒトという生物は日常の生活圏内の思考で生きて充足している存在なのだ。


 東日本大震災における津波被害とそれに伴う福島第一原子力発電所事故については、人類の叡智を結集して政治と人間の連帯で早期に乗り越えていくしかないが、冷静に立ち止まって現代文明の危機的な状況をどう転換すべきかを議論していくことは重要である。その意味から、この論稿は一つの貴重な視座を私たちに提供してくれるものといえるのではないか。