好き。

と思う前は、いろいろ懐疑的だが、

好きだなぁ。

と感じてしまった瞬間からは

理性とか冷静さを失っている。

 

対象へのイカレ具合にもよるが

「好き」

というフィルターを通して観るから、

ありのままを見てはいないのだろうと

不安になる。

それは、

私にとっては、好ましくない状態だ。

だから、

のめり込みそうになるときには

距離を取り、頭をクールダウンさせるようにしている。

(ウッソだろ?アンタにそんな自己抑制力がアルだなんて、信じらンないね。)

(むなしい自己つっこみ終了。)

 

好きになるとか、

夢中になるとかいうことは、

特別なこととして大切にしまっておきたい。

できることならば、

自分が何を本当に好んでいるのかは、

誰にも知られず隠しておきたいくらい。

 

《好きなことは他者と共有しないほうが良い》

 

他者が入ることの相乗効果で盛り上がるが、

それと同時に、夾雑物が入ってくることが常だからだ。

というひともいる。

 

スポーツ観戦のように

大勢が楽しんでいるのを見るのは、面白い。

自分もその中に居ながら、(よく)「ばかだなぁ」と笑っちゃう。

大相撲には少しココロがトキメクくが、

オリンピックにはトキメかない。

極力、モノスゴクおおきな渦の中への参加は、
遠慮している。

 

わざわざ集団の中に入らずとも

好きなことは一人で楽しめる。

大勢で一体感を味わいつつ。

でないと楽しめないのであれば、

それは、そのことを心底、

好きではないのだろう。

…あ、訂正。

合奏とかメンツが揃わないと成立しないものがありますね。

 

 

あるものを信奉する集団は、

自分の属している集団に

「幻想」とか「スペシャル感」を持ちがちになるが、

これも、

自己愛の延長というか

自己肯定感を増幅させたい気持ちが根底にある。

集団催眠なんかにかかりたくはない。

盲目的で、どこがどう良いのか、悪いのかも判らず

判断基準を自分以外に委ねるのは大嫌いだ。

(筆者、ここで大興奮。)

 

 

ダイスキーダイスキーワーワーワー

と騒いでいたものが一転、

「…大嫌い」

と、ヒョーヘン

「イヤだ・キライだ・バカヤロー」

状態になった時のふるまいについては、

ヒネリを加えてくれないと、正視に耐えない。

見なけりゃいいが、流れてくる。

マイナスの感情(悪口)をも共有して、

仲間意識を盛り上げようとするのも、

太鼓持ち的コンタンが見え隠れしてうつくしくない。

 

 

 

好きだ

と、

表現をするかしないか、

また、

感情の占める量のコントロールが

できるかできないかの違いだけで、

 

 

感情の呪縛から解き放たれることはないのだろうな。