水の透視画法/辺見 庸

『もの食う人びと」以降の最高傑作である。

脳出血の後遺症で半身に麻痺の残る辺見氏はかつてのように世界を飛び回ることはできない。

本書に書かれるのは日常の風景だ。しかし、日常から紡ぎだされることばは美しい。

そこには抵抗三部作で見られたような剥き出しの怒りはない。しかし、静かな憤怒がある。

本書のなかで、辺見氏は、いちばん恐れているのは、ことばに見はなされることであり、

そのような大事なことをかつて語った人物がいたということが唯一の希望であると述べている。

いま、我々にとっての希望は、辺見庸が存在すること、そして、そのことばが、

ほんの一部の新聞ではあっても掲載されていたという事実しかないのである。




かつて私は無宿人が多くあつまる東京のある街に住んでいた。

無宿人たちの何人かは飢えや病気のため主に冬場にいき倒れるのだった。

冷えきったアスファルトを地蜘蛛のようにはいずる瀕死の男を一度ならず眼にしたことがある。

それは内面のうかがいしれない〈他の身体〉であった。

いき倒れる〈他の身体〉に私は激しく動揺し、いたく同情もしたが、手ずから助けおこしたのは、たったの一回しかない。

視界にいき倒れた男がいても、たいていは鉛の玉をくわえたような心地のまま息をつめてとおりすぎたのだ。

すさまじい悪臭が私を〈他の身体〉から遠ざけただけではない。

たとえ助けおこしたとて、あるかなきかの良心をつかの間満足させるだけで、かれらの生命と魂を根っこから救うことはとうていかなわない、といういいわけとあきらめが、私と〈他の身体〉をきっぱりと分断したのだった。

台上に力なくよこたわる私は、寒夜の光景をまなうらに浮かべ、なぜかしきりに懐かしんだ。

そのとき、あることに突然こころづき、はっと息をのんだ。

過去をなぞる私の眼が、路上にうち倒れた男を見おろしているのでなく、いき倒れた〈他の身体〉の側から世界を見あげていたからだ。

眼の位置の転換―そのわけを、うまく説明することはできない。

ただいえるのは、うすれゆく意識のなかで路面から世界を見あげる生体が、見おろす者の信条とはまるでかかわりなく、生きたい、生きたいとこい願っていたことだけだ。

私は台上でさとった。