KoreaTour2010:小鹿島‐「生」の帝国と象徴の政治。
水曜集会翌日の早朝、小鹿島を目指し出発。国立小鹿島病院を訪問する。
国立小鹿島病院 の歴史は、1916年に朝鮮総督府が立てたハンセン病施設に始まる。当初は慈恵病院だったが、1934年に小鹿島更生園に改称、1960年に国立小鹿島病院になった。台湾・楽生院より14年ほど早く建てられたことがわかる。
小鹿島には、楽生院に通っていた関係でいつかは行ってみたいと思っていた。念願、ついに叶いました。
この日、小鹿島を案内してくださったのは李世容先生。小鹿島へ向かう途中先生と合流、昼食をとって小鹿島へ向かった。
昼食は先生行付けのお店へ。この日のスケジュールは全て先生のコーディネート。大変お世話になりました。
正午を少し回ったこと小鹿島に到着。休憩も含め約6時間車に揺られました。
小鹿島病院は、島全体が病院かと思わせる広さ。楽生院の何十倍あるだろうか。なので、(これも先生のはからいで)車で病院内を回ることができた。
まず向かったのが慰霊塔。
慰霊塔には「追悼 故10656位 合同追悼式」とある。「10656」は、2009年10月15日までに小鹿島病院で亡くなった患者の数。
その慰霊塔の前で。左が李先生、右はナヌムの家歴史館研究員の村山一兵さん。李先生は、ハンセン病患者強制隔離政策の背景には、帝国日本の植民地主義拡大と膨張があったと話してくれた。
その帝国日本が行なった隔離政策に関連して、李先生はとても興味深いことを言っていた。
先生は、戦前に作られたいくつかのハンセン病施設にはある共通点があるのではないか、という。
例えば、台湾の楽生院、小鹿島の更生園、岡山の長島愛生園、東京の多磨全生園、宮城の東北新生園を比べてみると、どれも「生」という文字が使われていることに気づく。そして、ここには、「生」を生まれ変わらせるという意味が込めらているのではないか、ここに人の「生」をもコントロールしようとする帝国の存在・力を感じるのだという。
次に向かったのは、「友村福祉会館」。
わたしたちが到着したとき、一人ハーモニカを吹く患者さんがいた。
この建物は「福祉会館」だけれど、門には「公会堂」と書かれていた。
ここは、当時の患者に帝国日本の理念を洗脳する場所だったそうだ。
この門の真向かいには、「敬天愛人」と書かれた記念碑が建っている。
李先生が推測するに、この碑には昔、皇族の名前が彫られていたのではないかという。そして、こうした碑を建てたりすることを先生は「象徴の政治」と呼んでいた。
そんな話を聞いていて、そういえば楽生院にも同じような碑があったはず、と思って過去に撮った写真を見返してみるとが、それらしき碑の写真が見当たらない。なにかの記憶違いか。
ただ、皇族とハンセン病・施設との関係が深かったのは確かだと思う。例えば、こんな論文 もあるし、また、楽生院で発刊されていた『萬壽果』第三巻の「巻頭言」を見ると「皇太后陛下再度の巨額なる御下賜金を奉戴し…」とあり、皇族から楽生院に再度「御下賜金」が送られていたことがわかる(同号の「特輯欄」では、その御下賜金に対する拓務大臣や台湾総督の感謝が掲載されている)。
また、慈恵院も明治天皇の「御下賜金」で建てられた(はず…)。というのは、あとで紹介する「花井院長彰徳碑」の碑文に「全羅南道小鹿島慈惠醫院大正五年二月以 明治天皇御下賜之基金所設立…」とあったので。
その「象徴の政治」との関連で、小鹿島病院の院長をつめた二人の人物を紹介しておきたい。花井善吉と周防正季 である。
花井は1921年から29年の8年間院長を務め善政に勤めたといわれる。一方、周防は1934年から42年まで園長を務めた。しかし、そのあまりにもひどい悪政のため、42年に患者だった李春相に殺された(李先生は、この李春相を伊藤博文を殺害した安重根と同様に英雄として扱うべきだ、と韓国政府に申し入れたそうだが、認められなかったという)。
善政を施した花井には「花井院長彰徳碑」が1930年に建てられているが、悪政を行なった周防の場合、その悪行ぶりが伝えられている。
いまの小鹿島病院では、二人はこうした語られ方で記憶されている。しかし、李先生は、確かに周防は悪いことをしたけれど、戦時下だった当時の時代背景を考える必要がある、と述べていた。
いまこの記事を書きながら気づいたのは、周防が園長に就任したのが1934年で、慈恵院が更生園に改称したのも34年だということ。すると、周防の歴史はそのまま更生園の歩みと重なるのかもしれない。
それでは以下、何枚か写真を紹介します。
「中央公園」に建つ「救癩塔」。「中央公園」は、周防が患者たちに作らせた公園。
塔の裏にはハングルで碑文内容は、ボランティア数十名が力をあわせ作った塔・・・だったかな。うろ覚えです。
断種台。実際に使われたものかどうか、不明。
かつて患者たちが住んでいた宿舎。いまはそのまま放置されている。赤レンガだし、楽生院のと似ている(ただ三合院ではないけれど。当然か。)