最近、「後悔」することが増えてきたような気がする。

と言っても、ここ何ヶ月と言うような最近ではなく、10代、20代に比べて30代、40代となるにつれて増えてきたと言うことである。


 昔、学生の頃はいきがって、「後悔とは、人生の選択のときに、行動しなかった結果である」「自分自身で下すべき決断をしたとき、それは後悔にはならない」などと友人にいきまいていた。
でもその頃の悩みは恋愛くらいしかなく、相手に告白してふられるか、黙ってあきらめるくらいしか、後悔の種がなかったのだから、単純でよかった。


 「後悔」とは文字通り悔やむことである。

満足できない現状の原因(過去の出来事)に対し、いかんともし難く「あ~しまった」と悔やむことである。
そこには、悲しみや苦しみがある。怒りや憎しみもあるかもしれない。
「後悔」しても、あいつが悪い、社会が悪いなどと、言い訳できる内はまだいい。


一番困るのは、誰のせいにもできず「可愛い自分」を責めるしかないときである。

自分で自分を罰したり、裁いて傷つけていく。抵抗できることといったら居直ることぐらいしかない。


 人生うん十年やってきて分かったことは、行動したからこそ、決断してしまったからこそ後悔してしまう、ということだった。
学生の頃「後悔するような人生を歩むつもりはない」と豪語していた私は、ただのお馬鹿さんだったのだろうか。


 一方で「反省」という言葉があるが、こちらは逆に、年とともに減ってきているような気がする。
子供の頃はよく親に叱られて、反省しなさいと言われたものである。学校でも、先生に「反省して立っていなさい」などと叱られていた。「反省」とは叱られた後にするものくらいにしか思っていなかった。


 しかし、本当にそうだろうか。
反省という字はひるがえって省みること。
ということは失敗したから行うのが反省というわけではなく、成功して行ってもよいわけである。

成功の中で、もっと成功するためにと反省することだってありえる。

 「反省」は原因を追究するための「思考」が中心であり、「後悔」は悲しみ、苦しみ怒りなど「感情」が中心になる。


 「後悔」しているとき、思考は停止状態にある。
「後悔」することが増えてきたと言うことは、年を重ねて「感性」が豊かになったのではなくて、単に「感情」に振り回されていただけかも知れない。
私が若い頃から焦がれていた「理性」はどこに行ってしまったのだろう。


こうなったら「後悔」などしているときではない。今は、「反省」こそするときかもしれない。
しかし、「反省」していると、子供の頃からのクセで「叱られた」あとのような気分になり、だんだんと落ち込んで行ってしまうのは何故なんだろう。
長年にわたり、悪いことをした時にしか「反省」をしなかった報いかもしれない。


なかばあきらめかけていたとき、勇気の出る言葉に出会った。
「反省の目的とは成長、発展するため」「希望が見えた時に、一つの反省が終わる」
なるほど、だんだんと落ち込んでいったのは、未来への希望を見失っていただけだったんだ。

と「後悔」…イヤ「反省」した、きょうこの頃でした。