Earthy's Blog

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である。

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申し訳ないが、つくづく自分はふまじめな人間だと思う。

悩める仲間の話を聞いていても、そうだ。

仲間の苦しんだり、不安に駆られてどうしようもなくなっていたり、怒りに囚われてしまって辛くなっているという正直な話を聞いて、とても人間的であり、美しいなあと感じる。と同時に、かなりの上から目線で評価するな自分に、己の業の深さを感じてしまう。

 

ラジオで赤江珠緒は、森喜朗がオリンピック中に浅田真央について「この人は大事な時に必ず転ぶ」発言について「この人ほど大事な時に余計な失言してる人はいない」と言ってて、こりゃ名言だと感心した。

僕は、森さんのようなどうしようもない人間が魅力的に感じてしまう。不謹慎で申し訳ないが感じてしまうんだからしょうがない。森さんのリップサービスのつもりが、全然サービスになってないどころかむしろ人を不快にさせるというこのセンスのなさっぷりが一貫している所が、もうなんか逆に凄いなと思うのである。やはり、常人には務まらない職責を担われる方は、並の神経ではやっていけないのである。

 

東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗元総理が220日(木)に福岡市で行った講演での発言

もう一遍、またこれ3月に入りますと、パラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと、組織委員会の会長は健常者の競技だけ行ってて、障害者のほうをおろそかにしてるんだと。こういう風に言われるといけませんので。ソチへまた行けと言うんですね。今また、その日程組んでおるんですけど、「ああ、また20何時間以上も時間かけて行くのかな」と思うと、ほんとに暗いですね。

 

それから小田島隆は、日本の五輪委員が選手にメダルを噛むなと釘を刺してたということについて、『「(五輪委員からメダルを)噛むな」と言われたら、私だったら歯が折れるまで噛む。「噛むな」と言われた以上噛まないと矜持に関わる』という趣旨の発言をされてた。メダルは獲った人間のものであり、溶かして換金しようが、鍋にしようが貰った人間の勝手だろ、と。金メダル溶かして田中貴金属工業に売ってやったら、なかなか面白いだろうなと思ってしまう。ま、金メダルはメッキだから、溶かしても価値はないが、さぞかし負けた選手は悔しかろう。相手をコテンパンに叩きのめすのなら、これくらいの事をやる人が出てくるかもしれない。

皆が欲しがっている金メダルの価値を台無しにしちゃうというのは、なかなか挑発的だが、それはそれで考えるに値する面白いことだなと思ってしまう。「皆欲しがって必死になってるけどさ、じゃあ金メダルに一体何の価値があるの?」という根本的な問題を提起する。そして、「努力って意味あるの?」「頑張ってなんか意味あんの?」と金メダリストがこういう問いを発することは、衝撃度はでかい。そして、問いを提起するということこそ、哲学であるから、金メダリストの破壊行為は、そういう意味で哲学的なのである。

だから、内柴サンは哲学的問いを立てたのである。

世間は、哲学を嫌う。根本の価値を揺さぶられることに対して、反射的に嫌悪し、拒否し、黙殺する。

世間とは市場のことであり、市場は効率が求められる。哲学はスピードとは相容れない。だから、哲学は常に世間にとっては無駄であらねばない。無駄なくせして、「哲学」とかいう、ちょっと高尚で知的な雰囲気漂う言葉で、なんだか人々に畏敬の念をもたせるような意匠を施している。「哲学なんて裸の王様だ。偉そうにすんな」って思う。けど、それでも気取って、真面目に哲学やってる人もいて、そういうのが人間の浅い所で、いいな~と思ってしまう。所詮、哲学者も、初源の動機は浅いわけで、それが何ともかわいいじゃないすか、と思うのである。

主催者の全日展書法会前会長で書家の龍源斎大峰(りゅうげんさいたいほう)氏。
また新しいキャラが登場した!

今後の注目物件である。

佐村河内守ブームが一段落しつつある中、また新鋭の登場だ。
「佐村河内守」と良い、今年の「時の人」は名前のクセがかなり強い傾向があるようだ。

俺はこういう人がむしろ、とても人間的でたまらなく好きなのだ。

真面目なニュースで、こういう不真面目な人が取り上げられると、ニュース全体がいい感じになる。


ニュースやワイドショーのコメンテーターは、こうした「偽造系」(と大雑把に括ってみた)の人を「けしからん」とか、「再発防止のための仕組みづくりを」とかいうけれど、俺に言わせりゃ、こういうことを言う方が「けしからん」と思う。

 

塩谷瞬 矢口真里 元JACK&JACK青木 ミートホープの社長 船場吉兆の女将・・・(青木はかなり知名度低いと思うけど)やっぱり、こういう人がいてこそ、ああ人間っていいなあ~と思う自分がいる。

 

人間は弱いと思う。情けなくて、卑怯で、汚くて、嘘つきで、だらしなくて、醜くて、言い訳がましくて、楽をしたがるくせに見栄っ張りで、どうでもいいことにこだわってて、物悲しくて、みっともなくて恥ずかしい。でも、そういうものに魅力があるように感じる。

 

「自分は被害者だ!」と言っている本人は気づいてないかもしれないけど、彼ら(自分も含め)そう言い張ることで、利得を得ているからそう言っているのである。

 

偽造系に騙されちゃった人は、被害者だと怒ったり、悲しんだりする。でも一方で、欲に突き動かされて引っ掛かったという事実が少なからずあって、滑稽でもある。不謹慎だけど、そう思ってしまう自分の業の深さ。。

 

今回の龍源斎先生は、憎めないキャラだし、マスコミ初登場からいきなり「自分が書きました」って言ってのけちゃうから、追及する側としてもまるで張り合いがないだろう。

ミートホープや船場吉兆の場合は、誰がどう見ても嘘ついているのがばれてんのにそれでも否認し続けて、でも取材陣にいろいろと証拠を突きつけられたり、あることないこと書かれまくったりして、とうとう観念して謝らせられるというやり取りの物語があった。

 

龍源斎先生は、さぞかしいい人なんだろうなあとしみじみ思ってしまう。

なんだか坂東英二と重なったのは自分だけだろうか。何だか憎めない悪人。

 

ところで、佐村河内守のゴーストライターの新垣隆さんも龍源斎先生も驚異的な才能の持ち主である。きっと龍源斎先生の書は、今後いろんな商品に使われていくんだろう。新垣さんにゲーム音楽をオファーしている企業もあるそうなので、ゲームのタイトルは龍源斎先生に書いてもらうと、とてもいい仕上がりになるなと思った。

ギブアンドテイクということは自分は嫌いではない。

しかし、何をテイクされたかについては、自分が決めることである。

「してもらった分、きちんと返しなさい」というのは、してもらったなあという有難味をこちらが感じてなければ、それはテイクにカウントされないのである。

それは、相手が勝手に好きでくれたものだ。こっちが頼んでもいないのに、勝手にくれたものに対して、相手に「ありがた迷惑です。こういうことは金輪際やめてください」ということはあっても、貰った以上きちんとお返しをしなければいけない道理はない。

世間の人は、もらったんだから、貰った内容が自分にとって気に入ってようがいまいがとにかくお返しをすることが大事だと考えている。

しかし、それはおかしなことだと思う。別にこっちが頼んでもねえし、気に入ってもねえものを受け取らされた側の気分を相手は何だと思ってんだと思う。欲しくもねえものをあげておいて、相手に感謝を要求するってそれは品性に欠けた性が悪い人間のやることである。

「あのとき、あれをあげたのに、まだそのお返しを貰っていない。あの人は失礼だ」と考えるやつはバカで非常に浅ましいと思う。そんなことを言う位なのだから、その人は相手のことをもともと最初からそんなに好きでもなかったのである。だったらそんな人には、最初から何もあげないか、ウンコでもあげとけばいいではないか。

逆に自分は、相手が対してすごいものをあげたとおもわなくても、こっちがすごいものを貰ったと思ったら、相手に感謝をするし、直接のお返しではなく、間接的にお返しをしている。

また、こっちがテイクしても様相を下回るギブしかもらえなかった場合は、自分は「いい教訓を得た。いい授業料だったな」と割り切っている。払った金の割に大した見返りを貰えなくても怒らない。だから、逆に払った分返せと怒るなと言いたくもなる。自分がテイクしたことに対して、ギブが足りないからと不満に思うなら、最初からテイクをしてはいけない。

テイクとはリスクを取ることでもあるのである。リスクのことを考慮に入れず、予想のギブがなかったとうだうだ言う勿れ。
また、そもそもギブされたのに、ギブと認識する能力がない場合がある。自分も他人とギブの認識のずれっぷりは甚だしいものがあると思うが、このギブ認識こそ、個人の価値観の問題なので、ギブ認知力をあげたい人はあげればいい。でも、そこまでして、ギブアンドテイクの原則を忠実に履行しなければならない道理はないのであるが。
そういうもんだと思う。
10月12日朝日新聞 教育面「性同一性障害の子に接する」
崖から飛び降りる思いで信頼できる人にカミングアウトして、気持ち悪いとか言われて無視されたり、親には「どうして私に先に言ってくれなかったの!」とか責められた当人は、そりゃ鬱や人間不信になる。ならないほうがおかしい。

ボクは、こうしたことの原因って、カミングアウトを受け止めきれなかった友だちや、親のせいじゃないと思う。彼らが、世間の常識という得体のしれないことを信じて疑わずにいることが本当の問題だと思う。世間の常識こそ忌むべき相手だと思う。

見えない世間の常識という病理に侵されていない人は、世間の人たちからすればおかしな変人とみなされる。それはそれでとっても当然のこと。

あるがままの自分を受け入れるということは、世間の常識を相対化するということ。自分は、世間から外れた人間。それでいい。

ボクの両親は、自由奔放を教えてくれた。世間の常識に囚われた生き方をしてはいけないということを身をもって伝えてくれてるように思う。以前は、両親の自由奔放さに、恨みや憎しみを抱いていたが、世間のあるべき姿というものに意を介さない両親の姿勢は、大切な教訓を伝えてくれてるように今は思える。

前回の続き。

14年間続けてきた公務員の仕事を後先考えず辞めてしまった人と出会った。

人間は変化を恐れる。

変化による未知の恐怖を味わうくらいならば、平気で不幸を選択する生き物である。

しかし、彼は違う。

彼は、公務員という安定を投げ捨て、未知への変化を選択した。

彼にとって公務員という仕事は、不幸な選択だった。

そのことに、14年たって気付いたのである。

不幸を選ぶくらいなら、未知への変化を選ぶ。それが彼の決断だった。

この決断こそ知性である。

知性とは、不幸を選択しないこと。


幸せは安定にはない。

幸せとは変化にある。


そのことを彼はわかっている。


公務員を後先考えず辞める。

馬鹿と天才は、得てして同じ行動をとるものである。


知性ある人が、自分の知性に気づかず、知性のない人から教えを請うて、機能不全に陥るという不幸がしばしば起こる。

そして、その不幸のカラクリを明らかすることができるのは、知性ある人だけに与えられた課題なのである。

知性は知性のない者を通じて磨かれるのである。

カウンセリングの研修を受けた。
14年続けた公務員の仕事を後先考えず辞めたものの、今目指している心理職が本当に自分に合ってるのかどうか自信がなくなっているという相談を聴いた。
後から指導者にこう言われた。
「14年も続けた公務員の仕事辞めたと聴いたところで、もっとそこで驚かなきゃ」と。
たしかに公務員という安定した仕事を後先考えず手放すのは常識外れかもしれない。
だから指導者がもっと驚くべきだというのはもっともだ。
その指摘を受けて、はじめ自分は驚けなかったことにショックを受けたが、
しかし驚けないのも無理はないなと思いなおした。
というのも、自分も後先考えずせっかくの経歴をあっさりと投げ捨ててしまうようなまねをさんざんやってきた口だからだ。
公務員を辞めるってそんなに驚かなきゃいけないことなのか・・・?と思ってしまう。

人間って突然、後先考えず訳わかんないことを平気でしちゃったりする生き物だと自分は思う。

で、それが人間の魅力であり、美しさであり、可愛さであり、憎みきれない所なんだと思う。

だから別に公務員辞めたくらいで格別驚くことでもない。
そう思う自分はヘンなのだろうか?
自分はカウンセラーには向いてないのかもしれない。
2011-11-22再録
大王製紙前会長の井川意高容疑者(47)は特別背任の疑いで東京地検特捜部に22日逮捕された。

彼に同情する。

生まれたときから、親が敷いたレールに乗せられて生きてきた。

正確に言うと、生きてきたのではなく、ただ生かされてきただけだった。

創業者の孫に生まれ、筑波大学附属駒場高等学校、東京大学法学部、そして会長になった。

超エリートコースを駆け抜けた。

彼は見事に親の期待に応えたのである。

履歴書だけを見れば立派なものだが、彼は彼の人生を生きることを許されてこなかった。

そういう意味で、彼は、奴隷と等しい。

幼いころから、家庭教師が来て、勉強させられたという。

大学在学中から父親の金を使い、銀座の高級クラブで豪遊していたというが、それは彼ができる唯一の抵抗であったのだろう。

そうやって彼はかろうじて心理的なバランスを何とかとってきたのだろう。

そう考えると、大金をギャンブルに使いこんだのも無理もない。

きっとギャンブルをしていても、なにも面白くなかったに違いない。

どれだけの大金をつぎ込んでも、最後まで「自分は生きている」という気分を味わうことはなかっただろう。

今日逮捕された。彼は正直ホッとしているのではないか。

刑務所は、親の敷いたレールではないからである。

つまり、彼は刑務所に入ることで、ようやく彼の人生がスタートできるのである。

そういう意味で、逮捕されておめでとうなのである。

久々に更新しました。
今日は東京しごとセンターに行ってきました。
就職相談は緊張しました。
思い直して、自分は社会に貢献したいんだ、活躍したいんだと意志を新たにしました。
ひきこもりから自助グループを経て、自分は責任ある大人になりたいと少しずつ思えるようになりました。
本当にこのしごとセンターは頼りになります。最初の総合案内から、実にスムーズに説明をしてもらいました。
何だか本当に自分はサポートされているんだ、味方がここにいると心強く実感できました。
就職支援アドバイザーが就職までマンツーマンでついていてくれます。しかも心強い。
なんか本当に自分は就職するんだ、そして就職とは自分がもっともっと幸せになることなんだ、と思えるようになりました。
自分の担当になった本当に就職支援アドバイザーFさんは本当に心強いです。自分のことをよく理解してくれていて、心から信頼できる人でした。
東京しごとセンターに感動した一日でした。
さて、その後仕事中に気づいたことがあります。
それは、自分は今までなりたかった仕事をことごとく自分で芽を摘んできていたという事実です。
その数、実に50に及びます。
それから、やりたかったこともリストアップしました。これも膨大な数になります。日常の本当に細かいことまで含めるととてつもない数になると思います。
いやあーこれだけやりたいことしたいことを意識に上げても、ことごとく実現のための行動を拒否・否定・無視を繰り返されたら、憎しみや怒りが蓄積されるのも無理はないと認めるしかありません。
これだけやりたいことしたいことがありながら、「まだ自分はしたいことがない」とこの期に及んで言っていたのです。そりゃ今まで散々やりたいことしたいことを挙げてきたのですから、もうこれ以上やりたいことが出てくることを期待するほうが間違っているんです。
あまりにひどい自分に思わず笑うしかありませんでした。
自分はインナーチャイルドにひどく信頼を損ねた行為を重ねてきたということがよく分かりました。
これからはインナーチャイルドのために今までのしたかったことやりたかったことをひとつひとつやっていくことしかないだろうと思います。
答えはもう自分の中にとっくにあるんです。もう答えを外に求めるという「逃げ」はもうやめにしたいと思います。

今日は神奈川県が主催する犯罪被害者支援の講習会に参加しました。



僕だけでなく誰でも、身近な人が犯罪被害者になった場合、どう接してよいか分からないので、予めなにか知っておけたならそれに越したことはないと思っていると思います。



ふと何気なく発した一言が、相手に深刻な傷を与えかねないのですから。。



ただでさえ苦しんでいる被害者に、周囲の配慮に欠けた言動がさらにその傷口を深くさせるということは、実は犯罪被害者当事者のほとんどが体験しているということを知りました。



 



しかし、犯罪被害者をどう支援したらいいのかということに積極的に関心がある人は、はっきり言って心に余裕がある限られた人しかいないというのが、残念ながら現状だと思います。



そう、みんな心に余裕もなく毎日を生きているのがやっとなのだと思います。



いちいち他人のことにかまってられない。むしろ、自分にかまって欲しいくらいだ。



そういう人が大半だと思います。



そんな余裕のない人たちに、「犯罪被害者の人にはこういった配慮をしましょう」と言ったところで伝わらない。



それどころか、嫌悪感さえ抱くだろう。



 



「けっ、なにが犯罪被害者だ。被害者になれば誰でも親身になってくれると思うなよ」、と。



 



「自分のことで手一杯なのに、犯罪被害者のことまで考える余裕なんかない」、というのが本音だと思います。



だから、犯罪被害者の支援の講習を受けるような、ある程度心に余裕のある人たちが、心に余裕のない人に対して、「もっと犯罪被害者の視点に立って思いやるべきだ」とか、「犯罪被害者の心の傷に関心がない人が多いのは困ったもんですね」などとあれこれ言うのは、ただの傲慢に過ぎないと僕は思います。



 



余裕のない人は彼らなりに必死に生きているのですから、彼らを頭ごなしに批判する資格は誰にもありません。



「犯罪被害者がこんなに苦しんでいるのに、犯罪被害者の苦しみを理解しないどころか、被害者の心を無神経に傷つける人が多い。今の世の中は憂慮すべき事態だ」と嘆くのは勝手ですが、そんなことで嘆いていても、何も事態は変わることはないでしょう。



それどころか、そうした嘆きは、被害の苦しみを知っている者が、知らない者を見下すという「逆差別」の温床になりかねません。



相手を見下す対象と思っている限り、両者が認識を共有しあうことはありえません。



 



犯罪被害者への原則は、共感です。



相手の話を静かに聞いてあげる。アドバイスはせずに、じっと聞くことです。



カウンセラーもまた、心に傷を負った人に寄り添う仕事で、その中で共感は最も重要なことの一つです。



しかし、逆に言えば、カウンセラーなんてたかがそんなことなのです。



別にカウンセラーの仕事がとりわけ他の職業に比べて尊いというわけでも何でもありません。



たかがカウンセラーなのです。



そういうことを忘れた時に、心の中に潜む傲慢が暴走するということを常に肝に銘じておかねばならないなと思いました。


メディアは、しばしば責任を取ろうとしない人を批判する。



しかし、なぜその人が責任を取りたがらなくなってしまったのか、なぜ責任を取ることを拒否するようになるほど、心が頑なになってしまったのか。



そこに想像をしていかないと、責任を取らないことは悪いことだと何千回何万回言ったところで誰も聴く耳を持たない。



責任を取らないことは悪いことだということは誰だって知っている。にもかかわらず、責任ある立場の人はそれをしない。



なぜか。



彼は、失うことが怖いのだ。



失うことは、恐ろしい。



失うことは、恥ずかしい。



そう信じ込んでしまっているがために、容易に今ある地位を手放せないのである。



一度失ったら、もう底なし沼のように何もかも失ってしまうのではないか、このように、不安が不安を増幅させてしまって、余計に手放せなくなるのである。



それは人間としての自然な感情だ。



なぜ自分だけが責任を取らなければいけないのか、そんな被害者意識もでてくる。



それが人間というものが持つ自然な感情だ。



責任を取れと言われれば言われるほど、心は頑なになる。



なぜなら、人は自分が他人によって変えられることを嫌がる生き物だからだ。



責任を取りたくない人の心理はよく分かる。



良く分かるのに、メディアは相変わらず、「責任を取れ、責任を取れ」と連呼する。



メディアは「北風と太陽」の話を知らないはずがない。



北風が吹けば吹くほど、旅人は洋服を脱ごうとしないのである。



 



人は、自分の中の認められない感情を持った人間を攻撃する。



メディアは「悪いことをしてもなるべく責任を取りたくない」という保身の気持ちがあるのに、それを認められないのだ。



だから、メディアは責任逃れをする人を見つけると、すぐ攻撃したくなる。



攻撃している対象は、「自分自身の中の認められない自分」であることを忘れて。



認められない自分自身と正面から向き合おうとしない生き方は、楽である。



ずっと、他人を攻撃していればいいのだから。



しかし、それではいつまでたっても、心に平安は訪れない。



心の平安を手に入れるためには、自分が苛立つ相手、むかつく相手を見つけるたびに、その相手こそ自分の中の認められない自分の姿であると認識し、正面から向き合おうとし続けることだ。