数学で担当している中2のクラスのみんなに、文化祭の動画リスト(URLは貼らずyoutubeでのタイトルのみ表示)を作ろうかと思い立ったので、作ってみました。すごい動画がいっぱいありました。大人も楽しめるので、楽しんでください。


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みなさんは、地元の公立の小学校からそのまま地元の、やはり公立の中学校に進学してきた人たちが大半でしょう。僕もそうでした。そんななか、漠然と高校受験に向けて勉強をしていても、そもそも自分が高校生になるということに何のイメージもわかない状態では、「つまらない」勉強をただいやいややっていくだけ……それは、やっぱり、嫌でしょう。だから、自分が高校生になるということを、少しでもイメージできるようになってほしいです。そのためには、高校の文化祭に行ってみるというのが、一番いいかな、と思います。けれど、こんなことを言われても、わざわざ電車に乗って行く気にはならないでしょう。なので、手軽に見ることができるようにこのリストを作りました。

ところで、「文化祭ってつまんない」、こう決めつけていませんか?僕は中学の頃、まさにこう思っていました。ところが、高校に行くと、だいたいはどこも中学と比べれば自由で開放的です。だからこそできることが、文化祭ではたくさんあります。そういったことも盛り上がる理由の一つです。他校から遊びに来る高校生もたくさんいます。「別に楽しまなくていいや」という人も、安い値段で飲食することもできますよ。なぜかフランクフルトや豚汁が定番になっているのですがね。



【スゴイ!映像編】


青山学院高等部(東京都) OPというのはこの場合オープニングのことで、おそらく文化祭が始まって特設ステージかなにかで映されたものでしょう。このクオリティー、すごいと思いませんか?高校生がこれを作っているんですよ。動画は早くてよくわかりませんが、クラスの出し物が紹介されていますね。こうやって、各学年の各クラスで、自分たちの教室を使って一つの企画をかたちにしていきます。クラスとは別で、文化祭実行委員などで、運営に関わると、オープニング以外でも例えば広報用にこういった動画を作ったり、パンフレットを作ったりします。動画の最後に「製作 PasoConKakari」とありますね。パソコン係でしょう。失礼ながら普段、あまり目立たなかったクラスメートが、こういうところで大活躍してみんなの注目を集めるということも、文化祭ではよくあることなのです。





これはご近所、千葉県内の専修大学付属松戸高校のものです。どこまでが許されて、どこからがまずいのか、というところに注目すると、みなさんの中学校よりはるかに自由だと感じるかと思います。ただ、これでもけっこう厳しい方なのかな、といった印象を受けます。高校選びの時にこういう視点も参考にしてもらえたら、と思います。






野田学園高校(山口県) 個人的には最後の「ドラゴンボール的」がとても好きです。






滝川高校(北海道) 内輪の盛り上がりに留まらないところがすごいですよね。






高校名不明






【見事な調和!吹奏楽部編】



橘高校(京都府) クラスとは別で、文化祭は文化部の人達の活躍の場でもあります。このことは中学と変わりないと思います。それにしても、このさわやかな盛り上がりはなんでしょうね?少なくとも、ここは先生が活動を管理して、生徒主体の部分が小さいような文化祭ではないということがこれだけでなんとなく感じとれるのではないでしょうか。






高校名不明 マーチングバンドということで、タイプが違う感じがしますが、これも出しものとしての完成度がすごいですね。






【一躍有名人に!個人技編】



高校名不明 ヲタ芸でこんなに輝けるのも、この日が文化祭だからです。ここがもし男子校であれば、このパフォーマンスのあと、彼らはほぼ間違いなく、お客さん(女子高生)との連絡先交換に成功したはず。






北嶺中学・高校(北海道) 歌が上手いというのはヲタ芸とは対照的にもともとモテ属性ですが、このように、普通、クラスや部活の枠を超えて様々なイベントが設けられて、そこにエントリーしてステージに立つという参加のしかたもあります。






【番外編 ~文化祭期間の様子~】



市立柏高校(千葉県) さて、これまで完成度の高いものばかり紹介してきましたが、この動画では、文化祭期間、特に準備期間の様子がよくわかります。文化祭の出しものは、なにも完成度が全て、ということはないのです。このように遊びながら、外に出たくなったら買い出しに行ったり、良くも悪くもぐだぐだ準備を進めていくのもいいものです。もっと言えば、クラスの企画には参加せずにステージに立ったり、他クラスに遊びに行ったり、他にも様々な楽しみ方があります。



最後に、文化祭は高校生にとって、非日常とよく言われます。確かに彼らからすれば自分たちの非日常を目一杯楽しむイベントといえるでしょうが、そんな非日常の中に彼らの日常が色濃く映し出されている、そんなイベントでもあるのです。高校選びという視点では、是非そういうところにもアンテナをのばして、来年いろいろな学校の文化祭に実際に行ってみて下さい。文化祭は、よく言われるその学校の「校風」というものを、最もわかりやすいかたちで感じ取ることが出来るイベントだと思います。
『オウム事件17年目の告白』(上祐史浩著、扶桑社)を読んだ。

 非常に興味深い内容だったが、なかでも、一人の人間としての麻原彰晃こと、松本智津夫の人物像に関する記述が最も印象的だった。

 地下鉄サリン事件をはじめ、数々の殺人事件に関与して、麻原のみならず多数の教団幹部が死刑判決を受けるなか、上祐氏自身は殺人には関与しておらず、偽証罪で3年の服役を経て出所している。

 彼はその後、麻原から脱却していく過程で、松本智津夫(麻原)の生い立ちを調べている。
そこで得られた麻原=松本の人物像に関する推察が書かれているのである。

 彼は、麻原が幼少時代と教祖時代に共通して、他人と対等な人間関係を育むことが出来なかったと指摘している。


 麻原の幼少時代に関して、少し長いが一部引用しておこう。


 「以前、対談した作家で写真家の藤原新也氏から、興味深い話しを聞いた。
 サリン事件後に、藤原氏は麻原の視覚障害が、あの水俣病の結果ではないかという仮説を立てた。麻原が熊本県八代市の出身で、水俣病の被害地域であること、そして、麻原の撒いたサリンが、水俣病と同じように視覚障害をもたらすものだったからだ。つまり、麻原は「目には目を」の精神で、多くの人を自分と同じ視覚障害に導こうとした、というのだ。
 藤原氏は仮説を唯一確かめられる可能性のある人物との面会に成功した。麻原の長兄である。麻原は幼少から弱視だったが、長兄は全盲だった。
 藤原氏は、自身の仮説を長兄にぶつけた。すると長兄は、
 「よくそこに気づかれましたな」
 と答えたという。
 そして、自分と麻原のために、水俣病の被害者認定の申請をしたが認められなかったこと、認定を求めて闘いを続けると共産主義者と見られて非難されるので諦めたこと、自分達兄弟は初めは目がちゃんと見えていたこと、自分が捕ってきた、水銀に汚染された魚介類を麻原が好んで食べたので責任を感じていること、水俣病特有の症状である手足のしびれが当時はあったこと、などをいろいろと語ってくれたという。」(p158)


 麻原はその後、6歳で普通学校から全寮制の盲学校に転入させられた。麻原だけは弱視で、それ以外の学友は皆、全盲だったそうだ。常に自分がヨコの関係において「優位」な環境で育ったのである。
 もちろんこういった珍しく不遇な生育環境が、人格を完全に決定するわけではないのだが、それはともかく、上祐氏はそれに関連してオウム時代のある出来事に触れている。

 それは、90年に国土法違反で教団幹部複数が逮捕された時のこと。上祐氏と麻原は二人で麻原の自室にいた。彼は突然、熊本地検に重油を積んだトラックでつっこんでやろうかと叫んだらしい。上祐氏は猛反対。これ自体、オウム内の教祖に対する信者の態度として異例だったとのこと(上祐氏はオウムの真理党の衆議院選挙落選の際に、麻原が落選の原因を選挙管理委員会の陰謀だとした時にも、他の信者の前で、独自の調査をもとに真っ向から陰謀説を否定していた)だが、麻原は「不思議な反応」を示したという。数秒呆然として「そうだ、そうだ。お前の言うとおりだ」と嬉しそうに言って、その後、この件に関して上祐氏に感謝したと他の高弟にも嬉しそうに話したとのことで、信者に対する教祖の態度としても異例だったという。

 僕はもちろん麻原=松本智津夫を直接見たこともないが、個人的には、対等な人間関係を築くことが出来なかったことが、彼の決定的な心の隙間となっていたことはよくわかる気がする。それが麻原の暴走の背景にどこまで根深くあったかは別としても。直接自分のことではないのだが、経験的なレベルでわかる。それから、この逸話に関しても、本当に嬉しかったのだと思う。嬉しいという言葉では到底片付けられない程嬉しかったと思う。これも、直接自分のことではないが、経験的なレベルでわかる。
 麻原の人間関係に関しては、親子関係の話しや、長兄に対する服従、ある宗教家に対する服従の話しも書かれているのだが、彼が支配・服従関係に埋没していったのも、彼にとっては人間関係の築き方がそれしかなかったからではないかと思う。

 ここで一つ僕なりに掘り下げてみるならば、本人がそういった自分の内面の問題に対して自覚的であったかどうか、という点だ。彼の場合、狂気に陥るまでの間に一つには「対等な人間関係がこれまでになかった」と自分でわかっていたかどうか。
 自覚的であったなら、過去の出来事を自分で消化して乗り越えるのも、自覚的でない場合と比べれば、語弊があるが、はるかに容易だ。前者の典型として考えられるのが「自分のせいにする」という状態だが、これは行き過ぎるとかえって良くないが、部分的にでもなければ、自分の問題を自分で解決するということは出来ない。当たり前の話しで、(自分の外側にある)目の前のコップを自分の体の一部とは普通は見做さないのと同じことだ。「自分のせいにする」ということが少しも出来ない、他人のせいにしか出来ない人間は、当然他人を攻撃することしか出来ない。
 そういう意味では、いわゆる「悩む」というのは、その時点である程度、知らず知らずに自分の内側に何かしら原因を見出しているからこそ出来る芸当ではないか。なんとなくだが、麻原はこういう過程を辿ってはいないと思う。

 もちろん、弱視で全寮制の盲学校に転入となったことは、それ自体彼が悪いわけでは全くない。これはモラルや常識の話しではなく、認識のレベルの話しだが、彼のその後の人生では、自分の内面の問題に自覚的であれば、反省するところまで辿り着けた出来事はあっただろうということだ。

 一概には言えないがおそらく、思春期以降に端緒となる出来事があれば、はっきりと自覚的でいられるだろうと思うが、早い段階であればあるほど、難しいのではないかと個人的には思う。
また、彼にはやはり対等な人間関係がなかったということを考えると、その機会がなかったともいえると思う。

 こういうことを考えると、というか前から思っていたのだけれど、被害者遺族は別として、「はい死刑!おしまい!」っていうよくある処理のしかたはどうかと思うなあ。やってしまったことからして死刑は死刑で変わらないにしても。