外来に行った。
入院していた病院の外来に行った。
サエキさん を見舞うつもりで病棟に上がっていって、驚いたことがある。
それは、私が退院するときにもうあまり長くはないだろうなと思っていたあの老人 が、まだ存命であったことだ。
ただしもう意識はなく、人工呼吸装置と絶え間なく電子音を発する心拍モニターをつけた姿だったが。
意外だったのは、臨終の際にいる本人を取り囲む親族の姿や雰囲気というのは、私はすごく沈鬱なものだと思っていたのだが、それに反して明るかったことだ。
そのころ老人の孫に当たる幼い姉妹の妹がはしゃぐと、お姉ちゃんのほうはしー! と諌めていたのに、今日は2人でじゃれあっていたし、そのように子どもたちがはしゃぐと親である娘さんは怒ったのだが、それもやはり怒らなかった。
ということは、あれは同室である私たちへの配慮ではなく、「おじいちゃんの眠りを覚まさないように」という配慮だったのだろう。
娘さんは微笑みを浮かべてさえいたが、どういう心境の変化なのだろうか。
その明るさの意味を私は、たぶん、「自分たちにやれるだけのことはやった」という満足感なのではないかと思っていた。
そう知人の医師に話してみたところ、「そうではなくて、ご家族は家族の死ということを受け入れたのだと思う」と言っていた。
言われてみればそうなのかもしれない。
あれからもう1ヶ月になる。
その1ヶ月の間に、妻・娘・孫というそれぞれの立場で、この男性の「死」というものを、「受け入れた」のだろう。
知人は続けて言った。
「医療者の立場で言うと、入院してから亡くなるまでの間には、最低1週間はほしい」
「その間に、医者の立場からは患者さんが芳しくない状態であることをじっくり説明して差し上げられるし、それを聞いたご家族も「死」を受け入れる準備ができるから」
「入院してまもなく死んでしまった、というような場合は、家族に「死」を受け入れられる時間がなかったということ。そういう場合は往々にして、看護者に怒りが向かいやすい。なにか医療事故があったのではないか、とか、そういう疑念を患者さんのご家族が持ちやすい」
現在、回復の見込みがない患者の、延命措置の中止を医師の判断で行なえるようにするための、ガイドラインの策定が進められている。
確かにそれもあるシチュエーションにおいては必要だが(患者本人や家族の依頼があったとしても、現行法では殺人罪で罪に問われかねない)、「残された者の心理的充足」ということを考えると、延命治療はただ本人のためでなく、その家族が、事後心安らかに過ごせるのならば、「回復の見込みがない患者に対する延命治療」にも、その意味は大きいのではないだろうか。