■オウム菊地直子元信者に無罪判決 東京高裁
NHKニュースより。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151127/k10010321461000.html


11月27日 15時03分

20年前に起きたオウム真理教による東京都庁の郵便物爆破事件で、殺人未遂のほう助の罪に問われた菊地直子元信者(43)に、2審の東京高等裁判所は「テロ行為を認識して手助けしたと認め るには合理的な疑いが残る」として、1審の懲役5年の判決を取り消し、無罪を言い渡しました。

オウム真理教の菊地直子元信者は、平成7年に東京都庁で郵便物が爆発し、職員が大けがをした事件で、爆薬の原料の薬品を教団の元幹部らのもとに運んだとして、殺人未遂のほう助の罪に問われました。

事件後に特別手配され、3年前に逮捕されるまで逃亡を続けていて、裁判では無罪を主張しましたが、1審の裁判員裁判で懲役5年の判決を言い渡され、控訴していました。

27日の2審の判決で東京高等裁判所の大島隆明裁判長は、1審で有罪の根拠となった教団の元幹部の井上嘉浩死刑囚の証言について、「不自然に詳細かつ具体的で、信用できない」と指摘しました。

そのうえで、「教団の実行犯が人を殺傷するテロ行為を行うことを菊地元信者が認識して手助けしたと認めるには、合理的な疑いが残ると言わざるをえない」として、1審の判決を取り消し、無罪を言い渡しました。

菊地元信者のほかに特別手配されていたオウム真理教の元信者のうち、高橋克也被告は、1審で無期懲役の判決を言い渡され、控訴しているほか、平田信被告は、1審と2審で懲役9年の判決を言い渡され、上告しています。


▲菊地元信者 涙拭う

菊地元信者は髪の毛を後ろで結び、グレーのスーツを着て法廷に入りました。

無罪の判決が言い渡されたとき、傍聴席からはざわめきの声が上がり、被告側の弁護士2人は互いにうなずき合いました。

菊地元信者は判決が言い渡されている間、弁護士の席の前に座り、前を向いて、時折、涙を拭っていました。

最後に大島裁判長は、証言台の前に立つよう促し、「審理した結果、法律的には無罪となりました。ただし、客観的には、あなたが運んだ薬品で重大な犯罪が行われ、指を失った被害者が出ています。あなた自身が分からなかったとしても、あなたの行為が犯罪を生んだことを、心の中で整理してほしい」と話しました。

菊地元信者は、裁判長に向かって深く頭を下げ、涙を流しながら、両手で顔を覆って、法廷を後にしま した。


▲弁護士「喜んでいる様子なかった」

菊地直子元信者の主任弁護士を務めた高橋俊彦弁護士は、判決のあとの様子について、「裁判長の最後のことばを重く受け止めていたと思う。ほっとしたところはあると思うが、事件で重篤な被害を受けた人がいることを忘れていないので、裁判に勝ったと喜んでいる様子ではなかった」と話していました。

また、今後のことについては、「まだ判決が確定しているわけではないので、本人のことはそっとして おいてほしい。今から教団に戻ることは考えられない」と述べました。

判決については、「1審の判断の根拠が誤っているということを、すべての範囲で論破する内容だった」と評価しました。

そのうえで「検察には上告しないでほしい。元信者は普通の一般の人としてそっとしておいてほしい」と述べました。



▲大けがの元職員「罪の意識 法廷で立証できず残念」

東京都庁の郵便物爆破事件で指を失う大けがをした、元職員の内海正彰さん(64)は、判決について 「菊地元信者は長年逃亡生活を続けていて、罪の意識を十分持っていたはずです。無罪判決は、そういった事実を法廷という場でしっかりと立証できなかったということで、誠に残念です」と話しまし た。


▲菊地元信者 逃亡と裁判の経緯

菊地直子元信者は、17年にわたって逃亡を続け、裁判では無罪を主張しました。

菊地元信者はオウム真理教による地下鉄サリン事件の2か月後、平成7年5月に特別手配されました。

その年の秋ごろから、同じく特別手配されていた高橋克也被告ら4人の信者と埼玉県所沢市のアパートで共同生活をしていましたが、1年ほどで高橋被告と2人でアパートを出ました。

平成18年ごろからは、教団とは無関係の男性と、東京・町田市や神奈川県相模原市で暮らしていました。

しかし、平成23年の大みそかに、特別手配されていた元信者の平田信被告が突然警察に出頭し、菊地元信者も半年後に通報を受けて逮捕され、17年にわたった逃亡生活は終わりました。

捜査の結果、地下鉄サリン事件や猛毒のVXガスによる襲撃事件については不起訴となり、東京都庁の郵便物爆破事件で起訴されました。

1審の裁判員裁判では、菊地元信者が教団の元幹部のもとに運んだ薬品について、爆薬の原料だという認識や人を殺傷できるものだという認識があったかどうかが争われ、無罪を主張しました。

事件から時間がたち、本人の認識を裏付けるものがないなか、井上嘉浩死刑囚や中川智正死刑囚など死刑が確定した教団の元幹部3人に対する証人尋問が行われました。

1審は「爆発物が作られるとまでは認識していなかった」として、爆発物の製造・使用を手助けした罪については認めませんでした。

一方で、「自分の運んだ薬品を使って人を殺害するかもしれないと認識していた」として、殺人未遂のほう助の罪で懲役5年の判決を言い渡していました。


▲東京高検「誠に遺憾」

判決について、東京高等検察庁の堺徹次席検事は、「判決は意外であり、誠に遺憾である。判決内容を十分に精査・検討し、適切に対処したい」というコメントを出しました






★当時のオウム真理教は次々と、殺人や反社会的犯罪・地下鉄サリン事件などを起こしており、教団の危険性や犯罪集団として認識していたはずだ。


菊地被告が「劇物」などと記された薬品を運んでいたことなどから、「人の殺傷に使われる危険性を認識していた」と認定、殺人未遂の幇助罪は成立するとした一審判決を支持したい。


高裁判決によると、危険人物に毒劇物を販売したりテロリストが所持していても、東京では問題にはならないらしい。


今後の捜査やテロ犯罪の取り締まりに、重大な瑕疵となる判決だ。



高裁判決は「危険な物であっても、直ちにテロの手段として用いる爆発物などを製造すると想起することは困難」「運搬した薬品が人を殺害するための原料であると認識していたとは、証拠上認められない」と判断した。


自分達(オウム真理教)自らが、「自衛隊がオウム真理教を毒ガスや細菌兵器で攻撃している」ヘリから空中に毒ガスがバラまかれ被害を受けていると、測定器や防毒マスクまで準備していた。


一般市民でも、漂白剤などに「混ぜるな危険」と書いてあれば注意するし気づくだろう。


劇物の名前は犯罪者や模倣犯に教える事になるので書かないが、彼女の家庭環境(兄の経歴)や学習能力をみると少なからず化学的な知識は否定出来ない。



また、被告については「教団幹部ではなく、他の一般信者と同様に教団の指示や説明に従うしかない立場だった」とも言及しているが、階級的にも決して一般信者と言う軽い立場では無く、宗教ネームも付与されており「エーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッター」で、教団が省庁制を採用した後は「厚生省」に所属していた。


又、1995年に起こした東京都庁郵便小包爆発事件から17年間もの長期に渡り潜伏していた事から、爆薬の原料を運んだとして殺人未遂幇助などの罪などの重い犯罪だと認識していたと思量出来る。


皆さんは万引きなどの軽微な犯罪をしたとして、自分の名前を捨ててまで17年間も日陰者として生きますか?。


私なら警察に出頭して軽微な犯罪として、情状酌量で執行猶予か反省して数ヶ月の懲役を狙う。



菊地直子容疑者が事件自体を殺人未遂事件や傷害事件など重罪と捉えた認識があり、幇助したと考えたから日陰者として生きる事しか出来なかったと考えます。


「17年間も逃げ回らないといけない」と、考えた深い闇の説明が付かない。









󾬜菊地直子 - Wikipediaより。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E5%9C%B0%E7%9B%B4%E5%AD%90


菊地 直子(きくち なおこ、1971年12月9日 - ) は、オウム真理教の元信徒。

埼玉県出身。

ネームはエーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッ ターで、教団が省庁制を採用した後は「厚生省」 (分割後は「第二厚生省」)に所属した。

オウム真理教事件実行犯の1人として、警察庁特別指名手配被疑者に指定され、長期間逃亡していた。

埼玉県草加市で出生。

父は大学教員で大変厳格であり、弟も菊地の出家当時は有名進学校に通っており、後に国立大学医学部に進学し医師となった教育熱心な家庭であった。

父親の仕事の都合で転居を繰り返した後に大阪市城東区に居を定め、菊地は地元の小学校に通う。

低学年からピアノを習い、外遊びをあまりしない子供であった。

当時倍率約15倍の大阪教育大学附属天王寺中学校に入学、バスケットボール部に所属。

優等生タイプで成績はトップクラ ス、真面目でやさしく人望が厚かった。

その後は大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎へ進学したが、この頃から成績が伸び悩んだ。

高校では陸上部に所属。

3000mで11分23秒の記録を持つ。

校内のマラソン大会では常に大差をつけて優勝、地区大会で上位入賞を果たしたこともある。


◆オウム真理教との出会い

陸上競技で痛めた足の治療のためにヨガを始めた が、そのヨガ道場はオウム真理教信者が信者獲得のために経営していた教団の洗脳施設だった。

結果として、高校3年生であった1989年12月27日に家族の反対を押し切り、オウム真理教に入信。

ヨガ道場で麻原彰晃の著作に触れ、その作中で指摘される神秘体験を経験したことであった。



◆1994年6月頃の階級

尊師-麻原彰晃

正大師

正悟師(正悟師長-正悟師長補-正悟師)

師(師長-師長補-師)

師補

サマナ(サマナ長-サマナ-サマナ見習)

*1994年6月にはオウム真理教は省庁制を導入し、聖職者の階位の枠を超えた「大臣」「長官」「次官」等の擬似国家的な称号も登場した。


◆1995年3月頃の階級

神聖法皇(しんせいほうこう)-麻原彰晃

皇子(こうし)-麻原彰晃の長男と次男

正大師

悟長(正悟師長)

悟長補(正悟師長補)

悟師(正悟師)

師長(菩薩師長/愛欲天師長 [1] )

師長補(菩薩師長補/愛欲天師長補)

師(菩薩師/愛欲天師)

小師(スワミ)

師補(スワミ補)

サマナ長

沙門(サマナ)

見習(サマナ見習)

準サマナ