~西へ~(293) 57日目⑦ 宇部護国神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)



琴碕八幡宮から「宇部護國神社」に到着です。少し迷いました。
 (車通りに面しているので裏道を走らなければすぐに見つかったのに…)

      

 由緒
 宇部護国神社(維新招魂社)に祀られている神様は、慶応二年から明治維新にかけて、国の為に命を捧げられた方々の御霊が祀られています。
 昔の領主福原越後元僴(もとたけ)翁をはじめその家臣、また日清・日露戦争その他の戦役事変で戦死された英霊です。
 昭和年代になってからは、周辺地域の合併により同地域の英霊が合祀され、現代では大東亜戦争の英霊3430柱、更に消防団などの殉職者も合祀されております。
 宇部護国神社は、初めに福原越後元僴(もとたけ)翁を祀り維新招魂社と称されたのが始まりで後、昭和14年に内務省令により宇部護国神社と改称され昭和21年に維新山神社と改称され講和条約発行と共に昭和28年に再び宇部護国神社の社名に戻り現在に至ります。
 昭和19年には起源2600年記念事業として、全市崇敬者の協賛の下に神域を拡張し荘厳な社殿が設営されましたが、翌20年7月1日の空襲に敢えなく焼失いたしました。幸い御神霊は旧社殿に奉還することができ、社務所だけはかろうじて難を免れました。
 昭和23年頃から社殿再建の話が、有志の間から澎湃として起ってまいりました。
 昭和28年8月28日には、宇部護国神社御造営奉賛会が設立され、会長に俵田明、副会長に上田十一、真宅正一その他役員の方々が選ばれて、いよいよ再建に向かっての動きが活発になってまいりました。
 全市民より600万円の浄財が寄せられ、工事は小倉の宮大工・中村時次郎に依頼して昭和30年1月8日起工式、同9月26日深夜遷祭、同9月27日には三隅市長以下関係者多数集まって盛大に竣工祭並びに竣工式が催されました。 
-宇部護国神社公式Webより



      

 日本最大級の水琴窟(すいきんくつ)手水舎
水琴窟、それは、日本人特有の心情と感性が創りあげた、日本の音文化の極致と言われ、1800年頃に江戸の庭師によって創案された日本庭園の最高技法と伝えられています。一般的には、茶室の入口の蹲(つくばい)や縁先の手水鉢の水門に小さな穴を開けたかめを伏せて埋め手を洗った水が穴から水滴となって落ち、反響して玄妙且つ風流な音を生み出すものです。カメの大きさは、50~60センチメートルのものが一般的ですが、この水琴窟は、高さ120最大胴罫0センチメートルの特大カメを用い、手水鉢は、四国のじょうとうの青石の自然石を用いております。この大水琴窟が奏でる音は、とても神秘的であり、琴の爪弾きにも似た、その澄み切った音色は、時間に追われがちな我々に、心の「ゆとり」や「豊かさ」をもたらかせてくれます。ご参拝の方は、手水で身を清め、しばし心静かに水琴窟の奏でる神秘的な音(ね)に、耳を傾けられまして、清々しい気持ちで社殿にご参入頂き、ご拝礼下さいませ。 -案内板より


 社殿

       

 由緒 宇部護国神社
創建 慶応二年十一月(1866年)
主神 福原越後元僴公(福原家第二十四代)
 毛利藩を救うため禁門の変(元治元年七月(1864年))の責任をとって
 同年十一月岩国において自刃された(五十才)

合祀 御英霊 
 禁門の変で戦死された二十二柱より、大東亜戦争まで国の為に戦死された
 宇部市全域にわたる尊い御柱

   御霊 消防等の公務殉職者
例大祭 春季 毎年 四月上旬
慰霊祭 秋季 毎年 九月二十三日(祭日)

当神社は禁門の変の御柱を西側奥地の「維新招魂社(通称御霊社)」に合祀して以来、約八十年にわたる戦死者の尊い御英霊をお祀りしてあり、英霊顕彰が続けられております。
当神社との縁りの深い福原氏は、宇部領主として治世約三百年の間、鵜の島開作 蛇瀬溜池 新川掘削 常磐溜池等領勢増伸に格別の努力を傾注するとともに、菁莪堂 後に維新館を開設して人材養成にも励み、禄高一万石を大きく凌ぐ程になりました。
尚、永代家老として歴代毛利藩の経営にあたり多大の功績がありました。
越後公は、徳山藩主毛利広鎮公の六男でしたが、福原家に養子となり永代家老をつとめ乍らも、領内の治世に勤み領民からの敬愛は特に厚く、なきがらは宋隣寺に葬られました。
越後公自刃九ヶ月後には藩より罪状焼棄されたので「維新招魂社」の建立となり、後に正四位 男爵を賜りました。
越後公の養子芳山公は、明治初期英国留学により石炭の重要性に着目、帰国後宇部坑区の流出防止と統合を積極的にすすめ、これを宇部共同義会に継承して産業発展の基礎づくりに多大の功績がありました。  -案内板より


      
    福原越後元僴公銅像

 福原越後公銅像建立にあたって
福原越後公(1815―1864)は、周防国徳山藩四万石の藩主毛利広鎮(もうりひろしげ)の23人(男12人、女11人)の子の10番目の子供六男として、文化12年(1815)8月28日に生まれ、文政9年(1826)3月、11歳の時、萩藩士佐世石見の養子となり、嘉永4年(1851)、家老に昇進する。しかし、家老にしては家柄が低すぎることから(佐世家は佐々木源氏系の家柄であるが、藩内での地位は低かった。翻って福原氏の祖は毛利氏と同じ大江朝臣長井氏であり、福原氏は宿老の家柄である)安政5年(1858)11月21日、藩主毛利敬親の命により長州藩で代々家老職を継ぐ家柄・福原親俊の家督を継承することとなり、長門国厚狭郷宇部村一万千三百十四余石の領主福原越後元僴(ふくばらえちごもとたけ)となった。越後公は、藩主の股肱の臣の一人として藩主の身代わりとも女房役ともなって藩政府内の頂上に居ながら藩主に忠誠をつくし、藩運を賭ける激しい政治的駆け引きの場でも、世の注目を集める華やかな舞台でも常につつましく脇役に身を置いていた。
 元治元年(1864)7月19日の『禁門の変』で長州藩の敗北により、幕府が第一次長州征伐を発動した際、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老は、藩主の命を受け出兵したにも拘わらず、幕府恭順の保守派(俗論党)によって責任を負わされ、長州征伐回避、藩存続の為に、切腹させられ無念の死を遂げた。しかし、この屈辱に激怒した尊王討幕派、高杉晋作が一ヵ月後、功山寺で挙兵し、やがて民衆を集めて組織した奇兵隊や諸隊も参戦し、藩政が討幕へと動き始め、そして二年後の第二次長州征伐に勝利し、明治維新の基が開かれたのである。もしも、三家老が切腹せず、長州征伐が回避されていなかったら長州藩は、徹底的に潰され歴史は大きく変わっていた。この三家老の切腹が、時代の機運を促進し維新の鴻業を醸成したる一原動力となったのは確かである。

福原越後公、元治元年11月12日岩国龍護寺で切腹。享年50。

切腹時の辞世の句

くるしさは絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は捨てがてにする

 誇り高き血筋に生まれ永代家老としての越後公には、朝敵、不忠不義と言う汚名を着せられ切腹する事は無念この上ない事ではあったが、忠義に殉じたことは、せめてもの救いであっただろう。寡黙で温厚実直、決断鋭く采配は見事、君主に忠実な名家老として幕末の長州藩政を見事に運営し、領地に於いては村づくり人づくりに着手し、文武修練道場維新館を建設し文武両道の教育に力を注ぎ宇部村発展の為に尽力し、名臣として高く評価され人々に慕われた領主であった。
 越後公は、憤死の後、一時琴崎八幡宮に合祀されていたが、崩し山(現、維新山)に慶応2年11月19日に社殿が建立されお祀りされた。はじめは、御霊舎と呼ばれていたが、後、「維新招魂社」と称され、昭和14年内務省令により「宇部護国神社」に改称された。
 銅像は、天皇陛下御大典事業の一環として、昭和3年11月福原越後公偉蹟顕彰会の呼び掛けにより市民からの浄財を募り神原公園に建立されたが、昭和16年9月1日の金属類回収令の施行により昭和19年に供出され、その後、再建の話が持ち上がりながらも実現されず今日に至っている。
 越後公の憤死から146年経った今、福原越後公も市民から忘れ去られた感は否めない。そんな中、松月院住職末次信明上人のお力添えで中村在住の門徒廣中米子様によって、越後公の御霊の鎮まります維新山の此の地に、再び越後公の銅像が建立されたのである。尚、銅像は東岐波在住の彫刻家古谷博氏が製作され、台座は昭和15年に山本榮助氏が上宇部小学校に二宮金次郎像を寄贈された時の台座である。その像は永年の風雪により破損がひどく忍びない状態であったので現在は、スケースに収められ校長室に安置されている
 平成22年11月23日15時から、来賓一般参拝者約200人が参列し建立奉告祭・除幕式が行われ、また、周南市の美容師田辺泰俊氏等有志が東京より、世界的に有名な和太鼓奏者西野惠、久保範浩氏等を呼び和太鼓が奉納され、また、特別企画の『言葉に出せない感謝の言葉』の入選者の表彰が行われ、西岐波在住の塚原祥子さんに表彰状と賞金50万円が授与された。また、銅像建立協力者の秋本昌子さん手作りのくす玉開きや鳩の放鳥、餅まきが行われ除幕式が盛り上げられた。17時からホテル河長において約140人が出席して『言葉に出せない感謝の言葉』の監修・直木賞作家 古川薫先生の『福原越後公見事な御最期』と題して小講演が有り、後、祝賀会が盛大に開催され、余興で銅像建立記念・福原越後公顕彰歌『忠孝桜』が満天堂によって披露された。祝賀会が盛大に開催され、余興で銅像建立記念・福原越後公顕彰歌『忠孝桜』が満天堂によって披露された。
この福原越後公銅像の建立によって、越後公を含む長州藩三家老を新たに顕彰し、明治維新の意義を顧みてこれからの日本の在るべき姿を一人でも多くの方々に考えて頂けたらこの上ない喜びである。銅像建立関係者皆様に心から感謝を申し上げます・・・。
   平成22年11月23日除幕    宇部護国神社 



   
   忠霊塔(昭和四十五年十一月建立)

         
           宇部護国神社 御朱印


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。




                                 つづく








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