~西へ~(290) 47日目⑨ 壱岐神社/壱岐護国神社Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


佐賀県北端部の東松浦半島から北北西に約20kmの玄界灘上に位置する
「壱岐島」に着ております。



丘の上に高床式の建物が見えます。



壱岐島にて最初に訪れたのは、「壹岐(壱岐)神社」です。



芦辺町瀬戸浦、海沿いの高台に鎮座しておりました。

   

こちらの神社には、壹岐護國神社が合祀されております。



 壱 岐 神 社 壱 岐 護 国 神 社 御 由 緒
御祭神亀山天皇後宇多天皇は元寇の役邦家塁卵の危き時
に専ら伊勢神宮を初め天神地祗を御信仰遊され皇室邦家民生の安泰のために只管天祐神助を祈らせられ深き御神助の下元軍を西海の藻屑と消え失せしめ給ふたつのであります。又御祭神小弐資時公以下麾下將士及戍申役以来の護国の御英霊等が戦場に職場に御国の御柱として尊き命を捧げられた御事蹟は御国の栄えと共に尊く光り輝き私共の永く敬仰して止まぬ処で御座います。これに依り御祭神は国難事変に際して深き御神威を顯はし給ひ平時に於ては国家の平和を護らせ給ふ神々であらせられます。
 當壱岐島民は(遺族崇敬者)昭和三年以来当神社御創建の事業を進め戦時下に物資困難なる時節に各方面の援助の下昭和十九年御本殿の建設を見たのでありますが昭和二十三年十一月三日御祭神三柱の大神等鎭座祭執行同二十七年には壱岐護国神社の鎭座祭を執行し本部護国の御英霊を安鎭し同二十八年には畏くも宮内庁掌典長甘露寺受長氏より祭祀幣帛料が大前に奉尊されました。同二十九年には角南造神宮局長来社境内外等視察計画樹立され同三十年には靖国神社より奉幣あり同三十一年秋十一月八日靖国神社御分霊を奉遷し同時に社名併稱の事となりました。
 同年三月二十六日遺族崇敬者を以て献饌講を結成するに当りては畏くも伊勢神宮より御稻種を下賜せられました。
 又昨春四月御祭神兩天皇御尊影宮内庁御原図の謹寫を許され本春四月二十一日例祭に当りて本殿の神座に奉安致しました。
かくの如く皇室を始め遺族崇敬者国民一般の厚き御信仰の御業蹟は只々感激の外御座いません。就いては御由緒概要を左に略記致します。
-壱岐神社公式Webより


     

 ご祭神は、
亀山天皇
後宇多天皇
少弐資時公
壱岐出身の護国の英霊 で、ございます。



全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。

      
  本殿                         忠魂碑

        
      一支國 壹岐神社 御朱印

 元寇
わが国は1274年、文永11年と7年後の1281年、弘安4年の2度に亘り元の襲来を受けておりますが、その折福岡の大宰府でこの九州を鎮座しておりました太宰少弐の武藤経資はわずかにまだ12歳の資時を戦士の志気を高めるため壱岐の島に派遣しました。この時元軍3万、船は900艇であったといわれています。壱岐の島もまた大変な被害を受け壊滅状態になりました。対馬、壱岐、鷹島などを経て元軍は博多港へと向かいまして百道の浜にて日本軍と合戦が行われることとなるのですが、1274年11月5日夜に神風が吹き荒れ蒙古の船百余艘が沈み13500人の死者が出たということであります。しかし、フビライはなかなか日本国をあきらめず日本を元の国に吸収しようと時を伺い、弘安4年に再び同じコースで日本に攻め入りました。この時はなんと4400艘の船に14万2千の兵であったと言われています。資時はその時19歳の若者へと成長しており、元軍を迎え撃ちましたがなにぶんにも14万の兵の前にわずか数百人の手勢で立ち向かい、力及ぶべくも無く、哀れこの少弐の丘で戦死なされました。お城は船匿城(ふなかくしじょう)と申しまして神社の向かい側右手の高台になりまして、今はわずかにやぶの中にその石垣を残すのみとなっております。現在は人一人がやっと通れるくらいの隠れ穴などが残されております。元軍はこの島で暴虐(ぼうぎゃく)の限りを尽くし多くの島民が犠牲となりました。この島には千人塚と申しましていたるところに15センチくらいの石を積んだ塚が残されておりますがその時の犠牲者を葬った場所でございます。この古墳(塚?)は古代朝鮮の高句麗の積石古墳と同じ形状になっています。また、この島では無理やりということをムクリコクリ、またはムリコクリなどという表現をしますが、これは蒙古高句麗(モウコ コクリ)という言葉からきているといわれています。島民は資時公への恩義を忘れず延々700年もの間この地域の村民でショウニイ様してお祭りしていたのですが、わが後藤家16代当主の後藤謙太郎が神社の創建を思い立ち、数十年の歳月を経て昭和22年、神社の創立がなりました。幸い、この文永の役の時も博多湾に元の軍勢が陣を構えております時7月30日の夜半より神風が吹き荒れ翌閏7月1日には多くの兵が溺れ死に、これを見た日本軍は大いに勇み立ち、残る元の兵を討ち取りまして、わずかに残る兵が朝鮮半島に向かって敗走し故国の土を踏んだのはわずか16000人であったと言われています。時の執権北条時宗は18歳の若さで鎌倉幕府の執権にわずか18歳の若さで就任し、文永、弘安の役を戦い抜き戦後処理の手も付かぬうちに弘安7年(1284年)病の為に34歳で亡くなりますが、資時、時宗、両者ともその生涯はまさに異国との合戦に捧げ尽くされたものだと言えるでしょう。 -壱岐神社の栞「元寇」より







                                 つづく







                当ブログの無断使用は禁止です。
                      メッセージにて確認をして下さい。その上で、 
                      文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。