~西へ~(294) 40日目② 鹿児島県護国神社Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


鹿児島縣護国神社に感謝と慰霊の拝礼にきております。

境内には、多くの慰霊碑がございました。

   
 慰霊                      (クリックで拡大)
昭和天皇御製
国のため命ささげしひとびとの ことをおもえば胸せまりくる
をちこちの民のまい来てうれしくぞ 宮居のうちに今日もまたあう

      
       航空母艦加賀 戦没者慰霊碑
   碑文
 加賀の艦暦
大正10年ワシントン軍縮絛約に依り主力艦の制限が加えられ航空母艦改造
昭和3年3月加賀は竣工し第1航空戦隊を編成し数年就役
昭和8年大改造に着工
昭和10年完成第2航空戦隊を編成
昭和16年12月8日ハワイ攻撃に参加
支那事変より大東亜戦争に突入しジャワ北濠攻撃作戦等に参加した
昭和17年6月5日ミッドウェイ作戦にて敵の爆撃に依り艦長岡田次作少将 整備長山崎虎雄大佐以下810名の戦友の屍と共にミッドウェイ海底6千米に今も尚静かに眠っている
合掌

 加賀要目
基準排水量 42,540屯
水線長       258米
最大巾     30.48米
吃水       9.479米
主機械 蒸気タービン 4基
プロペラ軸数      4基
機関出力  125,000馬力
速力         29ノット
備砲主砲     20糎6門
高角砲   12.7糎二聨装16門
機銃     25粍三聨装22門
飛行機  常用 75機 補用 25機
乗組員  平時 1340人 戦時 1708人


       
   一四五連隊記念之碑 
  碑文
歩兵第145連隊は昭和13年5月「日支事変」のため在郷予備役及び後備役を中心に動員鹿児島に於て編成を終え急遽中支那方面に派遣され揚子江岸蕪湖に終結後江西省流?橋に於ける諸戦盧山の戦斗を経て徳安迂回戦に参加しました。
この戦斗は約1ヶ月間にわたり弾薬兵糧尽きたる中多数の犠牲者を出し悪戦苦斗し翌14年3月修水河の激戦を経て南昌作戦に武勲をたて安義奉新方面の警備任務につき?浙作戦後一部は萓島部隊に編入され本隊は南支那へ転進広東汕頭作戦を最後に昭和15年3月帰国復員しました。
この生き残った隊員により145連隊戦友会を発会させ以来毎年戦死者並びに物故者の慰霊祭を行って来ましたがこの度戦友会相図り郷土部隊の実情を後世に留めると共に戦歿将兵と部隊関係物故者の霊とこしへに安かれと祈りつゝこの記念碑を建立します。
    昭和50年10月   百四十五戦友会一同


   
     「拓魂」
 碑文
昭和12年を契機として、五族共和、王道楽土建設と云う当時の国策の旗印のもとに、満蒙開拓、鍬の戦士として、この鹿児島県からも15、6才の少年達が続々と、歓呼の声に送られて満蒙(現在の中国・東北地方)の大陸に勇飛して往った。 その数、志友を含め実に6千余名もあった。新天地での開拓生活の途上、我が志を果たさず次々と病魔に倒れ又敗戦によって、リュック一つを頼りに我が子を抱きしめ、銃撃の間をくぐりぬけて我に還ってみれば、主人や妻の姿は見えず既に愛児も愛児も息絶えていた。 悲惨その極に達した。この予期せざる祖国の敗戦により、その理想も亦楽土も烏有に帰し、一大悲劇裡にその幕が閉じられた。
あれから既に30余年、今日に於ける我が国の現状を見るとき、この平和と発展の礎として散華して逝った、数多くの開拓戦士の存在と多大な貢献とを、瞬時も忘れてはならない。ここに満蒙開拓の国策に殉じた鹿児島県出身の、満蒙開拓青少年義勇軍を始め同志関係者の、御霊を祀り永遠に拓友、同志の遺徳を顕彰し後世にこの偉業を知らしめるため、拓魂之碑の建立実現を図った。
願わくば我等の眞意を諒とせられ、嗚呼 我が同志の諸霊よ、安らかに眠り給え。
  昭和52年10月 鹿児島県満蒙開拓之碑建立委員会


        
沖縄戦没者慰霊之碑「安らかに」            母の像

     
   台湾歩兵第一連隊慰霊之碑           あゝ特攻
  碑文
戦友ヨ シバシ思ヘ
昭和12年支那事變勃發スルヤ圖南ノ精鋭我ガ臺灣軍ニ動員令下ル日ヲ
「海征カバ水漬ク屍山征カバ草蒸ス屍」ノ彼ノ歌聲ヲ
九州健兒ノ将兵ヲ主トセル郷黨我ガ臺灣歩兵第一聯隊ハ同年9月12日基隆港ヨリ勇躍征途ニツク
既ニ秋深キ華中ノ原野ニ戰雲低ク早クモ展ク熾烈ナル戰闘ノ中江蘇省貴骨灣ノ敵前上陸ニ成功セリ
爾来征馬北風ニ嘶キ蹄鐵地ヲ蹴リテ鳴ル戰闘ニ寧日ナク 羅店鎮常熟ヲ衝キ杭州ニ轉戰シテ三州山系ノ敵ヲ撃破 宣昌安慶ヲ占領 武昌攻略ニ果タセル一番乗リニテ武漢三鎮ヲ完全領有セリ
疾風迅雷ノ其ノ進撃ハ早クモ「陸ノ魚雷部隊」ノ勇名ヲ馳セタリ
我ニ多クノ戦友ヲ失フモ江南ノ戰線意気将ニ天ヲ衝クモノアリ
更ニ我ガ部隊ハ轉戰又轉戰海南島攻略に将亦南寧ノ戰闘ニ欽寧公路ノ敵ノ援蒋ルートヲ絶ツベク惡戰苦闘赫々タル武勲ヲアグ
昭和16年第48師團ノ編成下ニ入ルヤ大東亞戰ノ宣戰布告ニ呼應シテ威風堂々艨艟ノ船團ハ一路南下呂宋島ノリンガエン灣ニ奇襲上陸一擧ニフィリッピンヲ席巻シバターン半島ノ頑強ナル米比軍ヲ撃滅シテ首都マニラヲ占領
翌17年南方諸島攻略ノ為第3大隊ハバリ島ニ本隊ハジャワ本島中部クラガンニ上陸一氣ニスラバヤニ迫リテ之ヲ手中ニ収メ更ニ濠北派遣軍トシテ濠軍ノ本據地テモール島ヲ攻略セリ
然レドモ戰局我ニ利アラズ「萬世ノ為ニ太平ヲ開カン」ノ詔勅ニヨリ大戰ノ終局ヲ迎ヘタリ
思ヘバ華中華南ノ大陸ヨリ南溟ノ波濤ヲ越ヘテ懸軍萬里幾多ノ辛酸ヲ共ニシタル忠勇義烈ノ我ガ臺灣軍将兵ノ雄姿今モ眼前ニアリテ轉タ感慨無量ナリ
然ルニ皇軍ノ必勝ヲ誓ヒ 皇軍ノ無窮ヲ祈リ 壮絶鬼神ヲ泣カシムル奮戰ニ最モ努メナガラ雄魂永ヘニ天ニ歸シ 従容トシテ大義ニツカレタル戰友諸靈ヨ 生死命アリ
一死報國ノ素願ありと雖モ 我ラ其ノ悲愴ノ状ヲ知レル者痛恨惜ク能ハザルモノナリ
噫 何ゾ其ノ壮烈タル 君ハ王事ニ斃レ 不肖我ラ碌碌トシテ生存セルハ誠ニ慟愧ニ堪ヘズ 然モ我ラノ力及バズシテ事諸靈ノ志ト違ヒ慟哭天ヲ仰ギ聲涙為ニ下ルモノアリ
ワケテ雪月花ノ時最モ友ヲ想フ心情ヲ如何ニセン
然レドモ諸士ノ奮闘ハ萬古國民ノ精髄ニシテソノ偉勲ハ永遠ナリ
諸士ノ靈魂必ズヤ皇國ト共ニ在リテ千載不滅ナラム
我ラ生存戰友ハ郷土出身戰没者諸士ノ志ヲ継ギ「再ビ斯クノ如キ悲愴ナル戰争ヲ惹起セザル祖國日本否世界平和ノ進展ニ殉セントス 茲ニ慰靈ノ碑ヲ建テ聊カ往事ヲ刻シ謹シミテ在天ノ諸靈に捧ントス」
   昭和57年9月12日  臺灣歩兵第1聯隊鹿兒島縣戰友會



        
           鹿児島縣護國神社
              御朱印


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。




                                 つづく







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