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源氏の氏神、誉田別命(応神天皇)をお祀りする誉田八幡宮にきております。


当宗神社(まさむねじんじゃ) 式内社
当宗神社の祭神は現在素戔鳴命(すさのおのみこと)であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「当宗忌寸」祖神である山陽公を祭っていたようである。 「当宗忌寸」の子孫には、宇多天皇の祖母が歴史上現れている。
その旧地は放生川(碓井川)と東高野街道(京街道)との交差点の北東に8平方メートルほど残存している。 -案内板より


姫待稲荷社 末社


恵比寿社

伝・源頼朝公寄進の神輿 塵地螺鈿金銅装神輿(写真)と境内古絵図

河内ふるさとのみち
放生橋(ほうじょうばし)
鎌倉時代に造られたと伝えられる、放生川に架かる花崗岩製の反橋。 長さ4m,幅3mの橋を、高さ3.5mの橋脚で支えている。
毎年9月15日の秋の大祭の夜には、神輿がこの橋を渡って応神陵古墳の濠のほとりまで運ばれ、祝詞の奏上や神楽の奉納などの神事が行われる。
かつては陵の頂上まで渡御していたといい、誉田別命(応神天皇)を祭神とする誉田八幡宮と応神陵古墳との、古くからの深いつながりがうかがわれる。 -案内板より

神馬
誉田八幡宮には、『日本書紀』雄略天皇の条に記された赤馬伝説の「おうまやの跡」があり、馬形埴輪庁も見つかっています。また、応神天皇陪塚丸山古墳から出土した国宝金銅透彫鞍金具や源頼朝寄進の重文鳶松皮菱螺鈿鞍など多くの宝物が社宝として伝えられています。 -誉田八幡宮公式Webより

南大門
現在、誉田八幡宮の正門は、旧高野街道(京街道ともいう)に面している東門であるが、南の出入口にある切妻造で大葺の立派な四脚門はこの神社の門ではなく江戸時代に八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門である。
この門も拝殿と同じく豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものであるが、大阪の役(冬の陣、夏の陣)で豊臣氏が滅亡した後、徳川家によって寛永年間初期に最後の仕上げを行ったものである。切妻の部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられている。
神宮寺であった長野山護国寺の本堂はこの南大門の西方正面に位置していたらしく誉田八幡宮古図(天保九年)から知ることができる。 -誉田八幡宮公式Webより

多宝塔

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)航空写真

河内國 誉田八幡宮
御朱印
つづく
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