神奈川県戦没者慰霊堂と横浜市慰霊塔(2) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


         [神奈川県戦没者慰霊堂と横浜市慰霊塔(1)のつづき]

「神奈川県戦没者慰霊堂」に続いて、「横浜市慰霊塔」に。

 

横浜市慰霊塔は、神奈川縣護國神社跡地に建っております。





 

 




敷地内には「平和記念塔」がありました。


塔裏面
「昭和四十四年十月 横浜市遺族会建之」


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げ、
戦没者の御霊を心から慰霊いたします。



昭和28年3月に建立され、戦後50周年にあたる平成7年に改修をした
慰霊塔ですが、 由来を記した2基の説明板が設置されています。


 


 慰霊塔ご案内(建立時説明板)
この慰霊塔は、西南戦争以来、第二次世界大戦 に至る戦争犠牲者二万余柱の御霊を永年安置する ための慰霊塔であります。 慰霊塔は、二基の塔と安置堂その他からなり 昭和二十八年三月、一〇〇〇万円の経費にて建設されましたが、このうち七〇〇万円は、市民からの募金によったものであります。 塔は門を象徴しており、向かって左の塔は、高さ十八米で上部を欠いてあり、下部に「昭和二十年」 の五文字を浮き出してあります。 これは、今次大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表したものであります。 また、向かって右の塔は高さ二十五米で新生日本が雄々しく、将来にむかって発展する姿を表したものであります。  横浜市

 恒久の平和を願って(改修時説明板)
戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。 この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は、先の大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は、新生日本が将来にむかって発展する姿を表しています。 市民の皆様と共に諸霊の御冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。 横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピ-スメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と 発展に貢献していきたいと思います。 平成7年11月1日  横浜市長 高秀秀信


この様に趣旨を変え、政治利用されるのを防ぐためにも、
「護國神社」を再建しなくてはならないのではないでしょうか。


護國神社とは、明治時代に日本各地に設立された招魂社が、
昭和14年に改称して成立した神社であります。

社格は持たないが、内務大臣が指定した府県社に相当する指定護國神社と、
村社に相当する指定外護國神社に分けられております。

指定護國神社は1府県1社を原則として指定されましたが、
岐阜県,兵庫県,島根県,広島県は2社が指定され崇敬地域の広い
北海道は3社が指定されました。

しかし、本当に恥かしく情けない事ですが、拙者の地元である
「神奈川県」には、「護國神社」がありません。
代わりに「慰霊堂・慰霊塔」があるだけです。

これは、昭和17年に横浜市神奈川区三ツ沢西町・南町(現在の三ツ沢公園)に
社殿造営が開始されましたが、完成間近昭和20年5月29日の横浜大空襲にて
焼失し、敗戦後、主権回復後も再建されなかった為です。

同様に敗戦等により造営が中止された宮崎縣護國神社,熊本縣護國神社は、
その後の努力もあり、再建されております。

現在、有志の方々が社殿造営地、現在の三ツ沢公園内にある
神奈川県慰霊堂の清掃活動や再建活動を行っているようですが。。。


どうにかしなくては。


                           つづく