山口県周南、徳山港の沖に「大津島」という南北10KM足らずの島があります。
この瀬戸内海・周防灘に浮かぶ小さな島から3隻の潜水艦が出航致しました。
今から69年前、昭和19年(1944年)11月8日の事であります。
この潜水艦の甲板上には、今までにはない少し変わった形の大型の魚雷が、
それぞれの艦に4発づつ搭載されておりました。
このベルトで固定されただけの魚雷は、前部が後部より太くなっており、さらに
よく見ると上部中央には、ハッチの様な物があります。そして、そのハッチを
囲むように整流板が取り付けられ、大楠公の旗印「菊水」が白で描かれてます。
これこそ、大日本帝国海軍の兵器「的㊅」(製造時名称「㊅金物」)後に、
大森仙太郎中将(特攻部長)によって命名された特殊兵器「回天」であります。
大日本帝国海軍には、真珠湾攻撃にも投入された「甲標的」という特殊潜航艇(全長
24M程の小型潜水艦(艇)、2本の魚雷を装備し航続距離は短いが高速で航行可)
があり、この建前上は帰還を前提としていた兵器を基に「回天」は、考え出され、
戦局打開の為に上申されるが、当初は「乗員の脱出装置無しでは兵器として絶対に
採用しない」として、却下されていました。
しかし、日本の戦局悪化は著しく「回天」は、大日本帝國海軍史上初の
「帰還を前提としない・特攻兵器」として、正式に採用されることになります。
この頃、大日本帝国陸軍では「突撃艇・マルレ」が上申されております。

昭和19年9月1日、大津島に板倉光馬少佐、黒木博司大尉(少佐)、
仁科関夫中尉(少佐)が中心となって基地が設営され、翌5日には全国から
志願して集まった搭乗員100名が到着し、本格的な訓練が開始されました。
この志願兵たちは、「攻撃精神旺盛」「後顧の憂いがない(兄弟が多い)」などの
基準で選別されたと伝わります。
しかし、訓練開始翌日には、黒木大尉(少佐)と同乗した樋口孝大尉(少佐)が、
浮上できず殉職をします。これにより部隊の士気低下が懸念されましたが、
それとは逆に、搭乗員たちは「黒木大尉に続け」として士気を高め、昼の猛訓練と
夜の研究会で操縦技術の習得に努め、また、技術を習得した優秀な者から順次
出撃との方針も出され、急速にその技量を上げていく事となります。
皆、戦局の悪化を理解し、「日本はどうなるのか」「家族はどうなるのか」を考え
「自分に出来る事をやる」「自分が護る」という思いに溢れていました。
回天で出撃した川尻勉一飛曹の遺書です。
「日本に如何なる危難襲うとも必ずや護国の鬼と化して大日本帝国の盾とならん。
身は大東亜の防波堤の一個の石として南海に消ゆるとも、魂は永久に留まりて
故郷の山河を同胞を守らん。
身は消えて
姿この世になけれども
魂残りて
撃ちてしやまん
ご両親、近所の方々に永年の御高恩を謝しつつ喜んで死んでいきましたと
呉々もよろしくお伝え下され度候」

訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、
1375名が訓練を受けました。
出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、
訓練中に殉職した者は15名、
整備中などの殉職58名、
敗戦により自決した者は2名。
と記録されております。
=戦果=
回天による攻撃(発進49基=搭乗員)
1944年11月20日:給油艦ミシシネワ撃沈
1945年1月12日:輸送艦ポンタス・ロス小破
1945年1月12日:歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
1945年1月12日:弾薬輸送艦マザマ大破
1945年1月12日:戦車揚陸艦LST225小破
1945年7月24日:駆逐艦アンダーヒル撃沈
1945年7月24日:駆逐艦R・V・ジョンソン小破
1945年7月28日:駆逐艦ロウリー小破
*民間輸送船 多数
母艦の雷撃による攻撃
1945年6月24日:工作艦エンディミオン撃破
1945年7月29日:重巡洋艦インディアナポリス撃沈
元「回天」搭乗員の言葉であります。
「この基地で訓練を受けていた時は、自分の人生の中で最も充実していた。
航行訓練の時でさえ何かあれば死にました。 常に死というものと隣合わせでした。
この歳になっても、海に手をつけるとその時の仲間と話せます」
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。