慶応四年(明治元年)、鳥羽伏見の戦いで勝利を収め、(真偽は別として)錦の御旗を
掲げた薩長連合及びその他諸藩軍(新政府軍)は、
東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍し、
3月5日には大総督宮ご本営も駿府(現静岡)に到着。
翌6日の軍議で「江戸城進撃」の日付が3月15日と決定されました。
この頃の江戸市中は、来る戦火から逃れるために人々の移動が始まり、
大騒動であったと伝わります。
旧幕府陸軍総裁・勝海舟は、君侯(徳川慶喜)の恭順謹慎の誠意を朝廷に伝える
手立てがなく甚だ困っておりました。
その時、海舟の前に現れたのが、
「山岡鉄舟 高歩」でした。
当時の鉄舟先生は、歩兵頭格(年俸約500両)という役職に就いておりましが、
御国の一大事とあり、歩兵奉行やその他奉行に
「直ちに大総督府(大総督宮ご本営)に至り、天下の迷いを説き、主君の誠意を
示さんと、江戸百万の命も危うき事」
と説いて周りますが相手にされず、
「この際猶予がなるものか」と言い捨て、義兄である「高橋 泥舟」を介して、
勝海舟を訪ねるのであります。
海舟の「官軍の陣営に行く手段はいかに」の問いに、鉄舟先生は、
「臨機応変は胸中にあるが、まず思い定めたところは、拙者一度官軍の陣営に
入ったら、彼等は一刀の下に拙者の首を斬るか、さもなくば縛するかその二を
出まい。しかるときは、拙者は静かに両刀を解き、ただ一言、拙者は総督府に
言上の節あり。万一その意にして不正と思ふことあらば、速やかに断殺せられ
よと、述べようと思ふ。貴殿はいかに思し召すか」
と、毅然とした決心を伝えました。
海舟は「かくまで確乎たる決心ならば、よもや仕損じるはあるまい」と答え、
「西郷 隆盛」に宛てた添書を渡したのであります。
こうして、鉄舟先生は、徳川慶喜侯の全権を委任されている勝海舟の命を受けて、
大総督府本営に向かうのでありました。
官軍の先鋒と相まみえると随行の益満休之助を励まし、平気に官軍隊列の真中を
突き進み、ここ先鋒の本陣と思うところに進むと
「我こそは、朝敵の名を蒙りたる徳川慶喜が家臣、山岡鉄太郎なり。この度、
総督府の宮に嘆願を対し奉るの節ありて、往来するものなり。
このだん態々申しあげおく」
と大声で、言って通り向けたそうです。
至極胆が据わっております。これも「剣」「禅」の達人、鉄舟先生だからこそ
成し得た事と存じます。
こうして、西郷との対面を果たした鉄舟先生は、
海舟から預かった添書を西郷に渡し、慶喜侯の恭順を伝えるのです。
しかし、西郷は、
「どこに恭順謹慎して生死の程は、ただ朝廷のご沙汰次第という実証はあるか」
と詰めただすのでありました。
再度、恭順の事を説きますが、西郷は黙して返答を致しません。
鉄舟先生は、言葉を続けます。
「拙者は、主人慶喜の意を代して、礼を厚うして言上したのでござる。
慶喜の本心を先生が、お取り成し下されないならば致し方ございません。
拙者は死するのみでござる。そうなると、いかに徳川家が衰えたりとはいえ、
旗本八万騎の中、決死の士はただ鉄太郎一人のみではござらん。
かくなり至ったならば、徳川家はおろか未来日本の天下はいかがでござろう。
それでも先生は進撃なさるおつもりでござるか。
もし、左様でござらば、王師の戦とは申されまい。
謹んで思うに、天子は民の父母なり。
理非を明らかにし、不逞を討ってこそ王師と申せますが、ひたすら謹慎し、
朝命に背かぬことを誓う臣下に対し、何ら寛大の御処分がないのみならず、
敢えてこれを討伐するなら、天下これより大乱となる事、明らかでござる。
願わくば先生、少しご推量下されよ」
と、一心に願う鉄舟先生に至誠の情理を見た西郷は、心を開き、
「直ちにご誠心を大総督府の宮様に言上しご命令を仰ぐので、暫し待たれよ」
と言い残し、席を立ったのです。
戻ってきた西郷が「江戸城総攻撃の回避条件」として示したのが、
一、暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
一、江戸城を明け渡すこと。
一、軍艦をすべて引き渡すこと。
一、武器をすべて引き渡すこと。
一、城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
一、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
一、徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
でありました。ここでまた、鉄舟先生は、食い下がるのであります。
「七ヶ条の内、六ヶ条は異議無く尊奉つかまつりますが、最期の一ヶ条、
すなわち、主人慶喜を備前に幽せられるとのご命令でござるが、臣鉄太郎に
おいて、お請け合い申しがたき個条でござる。再度ご評定くだされ」
と、願う。すると西郷は「この議は大総督府の宮様より出たことで、我々が、
口を出すわけにはまいらぬ」と突き返します。
しかし、鉄舟先生は
「もし立場を入れ替えて西郷先生が、島津侯を他藩に預けろと言われたら
承知なさるか。不肖鉄太郎は死んでも主人を他人の手には渡しません」
と詰問し、西郷も鉄舟先生の立場を理解して折れ、最期の一ヶ条は西郷が預かる
形で保留となり、盟約を終わったのでありました。
これにより、五日後、芝高輪の薩摩藩屋敷での西郷隆盛と勝海舟の有名な会見が
行われ「江戸城無血開城」が実現しました。
もし鉄舟先生のご活躍がなければ、西郷隆盛と勝海舟は会う事すら出来ず、
江戸の町は、官軍と旧幕府軍との戦火で、大変な事となっていた事でしょう。
西郷隆盛が勝海舟に述べた鉄舟先生への評です。
「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、
但しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、
共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。
本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう。」
維新後、勲章授与の話が出た時、鉄舟先生は、こう言って辞退なさったそうです。
「自分が住む国の仕事をしたまでだ。功績なんぞと誇り顔にする次第に非ず。
拙者はなお今日、その及ばざるを恥じるのみ」