立派な髭を蓄えた大柄な男は、東に望む仮御所(皇居)に向かいて、
最敬礼の座礼を終えると再び結跏趺坐に座り直し、
周りに居る妻子、親類、満場に微笑みを見せ、その後目を閉じると、
その姿勢のまま、静かに現世の終わりを迎えたのでありました。数え53歳。
その御仁こそ、
「山岡鉄舟 高歩」である。
時に、明治21年(1888年)7月19日、大変に暑い夏の朝でありました。
「山岡鉄舟」は、幼名を「鐵太郎/鉄太郎」といい、御蔵奉行・小野朝右衛門高福
の四男(五男とも言われる)として、江戸に生まれます。
「剣」「禅」「書」の達人として知られ、多くの人に慕われた偉人であります。
晩年の鉄舟先生は、「胃癌」に苦しめられたと伝わります。
30歳を少し越えた頃から胃の痛みを訴え始め、明治21年に入ると
流動食を食べるような状態だったようです。
しかし、病に伏してからも見舞いの客が来れば病床を離れ、身形を整え、
表座敷で会い、帰るときはいつも玄関まで見送りを欠かせませんでした。
日課にしていた大蔵経の写経も往生の前日まで続け、筆勢は衰える事がなく、
しっかりとしていたといいます。
すでに2日前の17日の夜、鉄舟先生は、
「今夜の痛みは少し違っている」とつぶやいて死を予感してたらしい。
主治医が来ての診察の結果も芳しくなかった。
翌18日になると、この話を聞きつけた人々が次々と見舞いに訪れたといいます。
その中に共に江戸城無血開城に尽力した盟友「勝海舟」もおり、
「俺を残して、先に逝くのか」と言うと
鉄舟先生は、
「もう用事も済んだ。お先に御免蒙る。」
と言ったと伝わります。
夜になると立ち上がるのも助けが必要になる様になるが、側らに居る三遊亭圓朝に
「みんな退屈であろう、俺も聞きたいから何か面白いのを一席頼む」
と言い出したという。
このあたりは、江戸っ子の洒々落々たるところと思われます。
布団に横になることもせずに朝をむかえると、風呂の準備を命じ、
7時すぎに湯殿に行き、身を清めて白衣に着替えるとその上に袈裟をかけた。
そして、結跏趺坐の形で坐禅に入られました。
9時をまわった頃、立ち上がり布団をおりると外の見える所に進み出て正座をし、
皇居に有らせられる天皇陛下に最敬礼をされました。
近世稀にみる豪僧として知られる中原南天棒老師は「山岡の死」と題し、
山岡鉄舟の臨終の様をこう描いていらっしゃいます。
五十三であった。死にざまもさすが平生の修行じゃ。誠に立派であった。
死する前に入浴して、白衣を着、袈裟を掛けて仏弟子たるを証した。
端坐して、右左を顧みて一笑してそのまま死んだ。いわゆる坐脱じゃ。
とにかく山岡のは、立派であった。彼は常に言うた。
「命を捨てたほどさっぱりしたことはない。
維新のころ、幕府と朝廷の間に立ち、
西郷に談判に行った時ほどきれいなことはなかった。
からだの底から水で洗ったような気持ちがした。
もとより、身命を抛捨してかかった。[身を捨てて浮かぶ瀬ぞあり]を実験した」
と言いよった。しかし、今少し活かしておきたかった。嗚呼今やなし
生前、奥方様に「司馬光(温公)家訓」を書き与えております。
積金以遺子孫 子孫未必能守
積書以遺子孫 子孫未必能読
不如積陰徳於冥々之中 以為子孫長久之計
此先賢之格言 乃後人之亀鑑
[読み]
金を積んで以て子孫に遺せども子孫未だ必ずしも能く守らず
書を積んで以て子孫に遺せども子孫未だ必ずしも能く読まず
冥々の中に陰徳を積んで以て子孫長久の計と為すに如くはなし
[訳]
多くの資産(金)を残しても、子や孫たちは、これを上手に守る事は出来ない。
沢山の書き物を残しても、子や孫たちは、これを読んでその知識を生かすことは
出来ない。
子孫をいつまでも栄えさせようと思えば、世の人々のために自らが
陰徳(隠れた善行)を積むことこそが、子孫が幸せに暮らす上策となるのです。