刀は、「武士の魂」と言われております。


元来の「武士道」とは少し変えられた主旨で書かれた、
新渡戸 稲造の著書「BUSHIDO(武士道):The Soul of Japan」には、
「武士道は刀をその力と武勇の象徴とした」と記されてます。

新渡戸は、盛岡藩士の子ではありますが、維新を幼少の時に向かえているので、
動乱に直接関わりあう事はなく、元服の頃には廃刀令も出ていたので、
実際に刀を抜く事もなかったと考えられます。ですから、
江戸官僚武士と同じ様に、象徴としての「刀」で、あったかも知れません。
しかし、土方 歳三をはじめとする、幕末動乱の渦中にある者にとって「刀」とは、
己の身を守る物であり、美術品ではなく正に実用品でありました。


現代に言い伝わる「土方 歳三」の愛刀は数々ございます。


「(葵)越前康継」(二尺三寸五分)
歳三が、会津公より拝領した打刀(大刀)

「越前康継」は、江戸幕府の御用刀鍛冶である。
家康・秀忠に召されて江戸で鍛刀し、葵の御紋を刀身に切ることを許されました。

歳三は、この刀を大切に保管していましたが、実姉の夫であり、歳三たちの
良き理解者である「佐藤彦五郎」の息子「佐藤源之助」が、
甲州勝沼戦争で官軍に捕縛され、後に放免されたの事を聞きつけ、
刀を失い不憫であろうと思い、彦五郎を通じて渡したと伝わります。
現在は、「佐藤彦五郎新撰組記念館」に保存されています。


「十一代和泉守兼定」(二尺八寸)
歳三が、京都で活動していた頃の打刀(大刀)

「十一代兼定」は、会津藩御用刀鍛冶であります。
会津藩主「松平容保公」の上洛に従い、京にて鍛刀していました。
兼定の弟子が保存している刀剣注文帳には「和泉守兼定刀三本 新選組」と
記されています。

「近藤 勇」が「佐藤彦五郎」宛に送った手紙に、その名が記載されており、
「この時期に歳三が使用していた」と定説になっている。
現在の所在は不明。


「堀川国広」(一尺九寸五分)
歳三が、京都で活動していた頃の脇差(小刀)

「堀川国広」は、日向(現宮崎県)に生まれ、新刀初期の大勢力「堀川派」の祖。
晩年は、京堀川一条にて鍛刀し多くの弟子抱えました。
歳三が、京で活躍した時代より約250年前の刀匠であります。
江戸の長曽弥虎徹と並んで新刀鍛冶の東西の代表的な刀匠で、
現在は、重要文化財に指定されるものもある程の名工です。
当時から可也高価でありました。

「兼定」(二尺八寸)と同様に「近藤」の手紙に記載があり、定説になってます。
現在の所在は不明。


「大和守秀国」(大)
歳三が、実際に使用していたかは不明。

「大和守秀国」は「兼定」と同じ会津の刀匠で、藩主・容保公が京都守護職を
拝命した後に、京に上がり鍛刀した藩御用刀鍛冶です。

新撰組金銭出納帳の慶応三年十一月二十六日に
「一金拾六両二分大和守刀身三本」
と記載されているから、新撰組御用達なのは、間違えないだろう。
歳三の刀とされている「秀国」と同じ裏年記がある刀が、現在、多摩・日野に
三振あり、「近藤 勇」が、故郷の知人に送ったと伝わる。
現在、岡山県倉敷に秘蔵されている、歳三の刀と言われている刀の銘には、
「幕府侍土方義豊戦刀、秋月種明懇望帯之、秋月君譲請高橋忠守帯之」とある。


「用恵国包」(小?大?)
歳三が、実際に使用していたかは不明。

奥州(現宮城県)仙台の刀匠であり、仙台伊達家御用刀鍛冶である。
歳三が、京で活躍した時代より約200年前の刀匠であります。

「相州之住綱広」(脇差)
歳三が、実際に使用していたかは不明。

小田原北条氏に仕えた刀匠。
初めは「正広」と銘を切っていたが、北条氏綱に一字を賜り「綱広」と改銘した。
天文七年(1538年)頃に活躍した刀工であるから、
歳三が、故郷多摩に居た時代より300年以上前の刀匠であります。

昭和5年初版の「史外史譚剣豪秘話(流泉小史著)」、後に「新選組剣豪秘話」
として出版された史実を基にした小説?に
(土方 歳三が京に上がる前に「用恵国包」打刀と「相州之住綱広」脇差の二本差し)
と記載されている。
「国包」「綱広」ともに現在の所在は不明。


「十一代和泉守兼定」(二尺三寸一分六厘)
歳三が、京都を後にした以降に使用したと通説で言われる打刀(大刀)
*「十二代目」と言われる事もあるが、「兼定」は、十一代目が最後である。
 小説「燃えよ剣」の中では、二代目(之定)と書かれているので、混乱したと
 思われる。

文久3年7月から慶応元年2月まで京で鍛刀する。会津藩御用達刀鍛冶。

土方歳三資料館に保存されている刀は、慶応三年二月と裏年記されているので、
兼定が、会津に戻った後に鍛刀したと推察出来る。
(どういう経緯で、歳三の生家にたどり着いたのでしょうか)



歳三は、友を想い、仲間を想い、君主を想い、故郷を想い、家族を想い、
35年の人生を駆け抜けていきました。

蝦夷の地で、歳三が詠んだ歌です。

 「よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は 東の君や まもらむ」



 武士よりも武士らしく生きた「土方歳三 義豊」

誠の「ものゝふ」の一人である事だけは、誰にも否定できません。