144年前の本日、明治2年5月11日(新暦1869年6月20日)
動乱の幕末を鬼神の如く駆け抜けた男が散華した。
享年35歳。

「土方歳三 義豊」である。


真の武士として、当時、治安の悪化していた京都内を
会津藩お預かりの活動部隊・新撰(選)組
(今で言えば「S.A.T/警察の対テロ特殊部隊」+「特別機動捜査隊」)の
副長として日々励み、近藤 勇や新撰組隊士らと、
ひたすら治安維持に努めた、「ものゝふ」であります。

後の宮内大臣/田中光顕の言葉が残っています。

「あの土方(歳三)が、役者のような顔で馬に乗って隊士を従え、
鋭い眼で市中の見廻りをしているのが一番恐ろしかった。
土方が来ると浪士は、露地から露地へ夢中で逃げた」


子供の頃から夢にまで見た「武士」になった歳三は、友である「近藤 勇」を
守る為、「新撰組」という組織を維持する為には、
時には己が鬼にならなくてはいけない。と考え実践していきます。

そして、努力の甲斐あり、新撰組の名も広がり、
隊士の数も200人を超す集団へと成長します。
そして自らも徳川幕府の旗本に召抱えられます。
名実共に「武士」になったのであります。


しかし、世は諸行無常と申します。
京の日々は、瞬く間に過ぎて行き、時は流れていきました。
風向きは確実に変わって行ったのです。

策士の徳川慶喜公が、政権返上を明治天皇に上奏し、認められ、
260年余の徳川幕府は、幕を閉じました。

鳥羽・伏見で薩長軍に敗れ、江戸へ戻った「土方 歳三」は、甲斐で再度、
新政府軍と戦いますが、歳三が、援軍を求めに戦線を離れた隙に戦が始まる。
しかし、多勢に無勢「近藤 勇」率いる新撰組は、敗れ再び江戸へ退きます。

その後、流山で真の友である「局長/近藤 勇」が捕縛され後、
残った隊士たちは、宇都宮、会津、仙台へと転戦します。

それぞれの道へ進んだ隊士もいます。
ある者は、江戸に戻り、ある者は、会津の地に残りました。
脱走する者、新たに加わる者、最期まで新撰組に留まる決意の者。
もちろん、「土方 歳三」個人に着いていく覚悟の者もおりました。

歳三が、仙台で旧知の医師/松本良順に語ったとされる言葉が伝わっています。

「この度の一挙は、三百年幕臣を養ってきた幕府が倒れる時に、命を賭けて
 抵抗する者が、一人も居なくては恥ずかしいという思いからだ。
 到底、勝算のあるものではない」

「我々ごとき無能者は、快く戦い、国家に殉ずるだけだ」

と言い放ったとあります。


そして最期の地となる蝦夷地へ到着します。

蝦夷に渡って以降、洋式軍備の軍隊になってからの土方歳三は無敵でした。
川汲峠で、松前城で、二股口で。
新政府軍上陸後の約1ヶ月に及ぶ戦でも、歳三の陣が破られる事は、
ありませんでした。


新暦6月20日(旧暦5月11日)、
五稜郭に篭城した榎本総裁ら蝦夷共和国首脳部に、降伏の話が出始めると、
歳三は、騎乗し城を後にしました。

そして、歳三は帰らぬ人となりました。

新政府軍に包囲され孤立した、京都からの隊士・島田魁をはじめ、新撰組の者たちを
助ける為、わずかな兵を率いて、弁天台場に向かい乱戦の中、討死したのであろう。
(状況、場所については諸説ある。機会があれば検証してみたいと思う)
撃たれ落馬した歳三に、側近が近ずくと「すまん」と一言だけ言ったとも伝わる。

この日の数日前、歳三はこんな歌を詠んでいる。

 「鉾とりて 月見るごとに おもふかな あすはかばねの 上に照かと」