うみとそら

うみとそら

うつになって・・・ ネットの片隅にでも自分の心がのこるなら・・・


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いま いちばん たいせつな こと は
目の前にある 勉強です。

知識を身につけるだけでなく、
自分の持っている知識を
人に伝えることができるようになることも
大切なことです。

いろんな 誘惑が おおいけれど
学校に 学生として 送り出されているのだから
なによりも 優先して 考えなければ ならないのは
勉強です。

それが 送り出してくれた人たちのきたいだし、
限られた期間の中でのことだし、
その先の期待もあってのことだし。

わかっているけれど、
誘惑が多すぎます。
そんなこと 全部 あとまわしにしてもいい というくらい
身近な人たちの支えは強いのですが。

気が付いたら 何も書かずに 1年近く


記憶がないこと の こわさを ずっと ひきずっていたような気もする。


新しい年度 新しい人との出会い


そろそろ 気持ちも 前向きにかわっていてほしい。


でも 今日は 悲しい出来事を振り返る日。

たぶん昨日の記憶がないのです。

正確にいうと 昨日の午後あたりから今朝までの記憶が

計算すれば半日眠っていたのだろうと思うのですが

思い出せそうな記憶の断片が見え始めると

とたんに恥ずかしくなります。


しかし、授業の発表もあったのに、

その記憶がないというのは 気持ち悪いものです。


それは 最近のことではないのだけれど

もう この病気 治ってるんじゃないか と思うことも 少なくないんだけど

でも 毎週カウンセリングを受けてるから 調子がいいのかもしれないし

薬を 飲んでいるから 安定していられるのかもしれないし

薬も カウンセリングも 止めてみたら 治ってるかどうかも わかるんだろうけれど

いまの なんとなく 落ち着いてるのが 崩れてしまうのは こわいし


いまのまま 薬を飲みながら カウンセリングを受けながら が いちばんいいんだろうけれど

変わりたいのに 変わるのが怖い

がんばりたいのに 病気だから無理できないって がんばらない

矛盾してるのは 自分自身がよくわかってる

こんな自分なのに だれかに必要としてもらえるんだろうか




 家族4人。2006年の春から東京の聖公会神学院で生活をしています。みんな大きな病気やけがをすることなく元気に過ごしています。
 神学生というのは、実に理解されにくい肩書きだとことを実感した1年間でした。「お仕事は?」とたずねられても「神学生です」とこたえてすぐに分かる方はほとんどありません。
 先日、生命保険会社の人がきて職業欄に困っておられました。結局は「団体職員(宗教)研修中」ということになりました。
 肩書きの意味のない立場だからこそ、立ち止まって神さまの風を感じることができるときもあるのでしょう。
 神さまから受けている風はさわやかなときもありますが、嵐のように激しい時もあります。
 でも、すべての秩序が整い、風がなく時が止まったように凍結された世界ではなく、風のある世界を神さまはつくられました。そんな世界ですから不安もあります。
 だからこそ、人々の不安をすこし和らげることのできる、そんな神学生でいられたらいいなと思いながら、キリスト教の歴史と格闘しています。
 聖職候補生に認可されました。よりいっそう心を柔らかくして、みなさまのお祈りと支えを感じながら心を深め、そして学びを深めたいと思います。
 

どうぞこれからもよろしくおねがいいたします。


ひなたぼっこ

授業の準備で 調べものをはじめると 直接関係のないところばかり 気になって 気になって

結局時間は足りないし 眠くなるし。でも締め切りはあるし。あわてるし。

勉強していないっていうことは、自分でもわかってるけれど 周りの人もきっと知ってるはず。


もっと早く気付いていれば・・・。と悔やむことばかり。


でも ここに書いて 悔やみでとどまるのは とりあえず 止めることにする。

なんでこんなに いろんなことを ひきずったままなのか。


もう終わったことなんだから。

さっぱり区切りをつけて、新しいことに気持ちをむけなければいけないはずなのに。


まだ8月のことをひきずって ずるずる ずるずる している


忘れてはいけないことだと思うから ひきずっているだけじゃ もったいない。


きちんとまとめて、リュックに入れて背負えるぐらいに なりたい。


SA350161.JPG
今日は富士山を見に御殿場に来ました。
うみ と おかあさん は お買いもの です