つぶやき:たくさんのいいね・コメントありがとうございます。いろいろと考えるきっかけになったようで書いてよかったなぁと思います。

 

 

*** 

 

 

あの日あったことをまだ書いていなかったので、記してみます。

 

 

 

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■はじめての死の恐怖

 

2011年3月はまだ子供もおらず、経理のアルバイトをしていました。

 

数日前にも大きな地震があり、わたしの向かいの席にいる奈良県出身のアルバイトの子が怖がっていました。

 

(奈良はほとんど地震がないらしく、テレビで地震中もアナウンサーが冷静に状況を伝えているのに驚いたといっていた)

 

仕事をしていると、また地震がきました。

 

わたしが驚くとその子がもっと怖がると思って、「大丈夫だよ」と声をかけながらなるべく冷静にしていました。

 

すぐおさまると思った揺れは、想像に反してだんだんと大きくなっていきました。

 

書類がパンパンに詰まって重たいはずのデスクが上下に激しく揺れ、そのはずみに向かいの席に重なりました。

 

ビルの5階が職場だったのですが、外を見ると隣のビルが円を描くようにおおきく揺れていました。

 

なにもかも異常な光景でした。

 

窓際にあった加湿器の中の水は激しく波打っていました。

 

机の下に隠れようにも、そこにも書類がたくさんあり、体が半分しか隠れません。

 

そのときに脳裏に浮かんでいたのは、震災の前月、ニュージーランドで起こった地震です。

 

建物が倒壊し、日本人が犠牲になったニュースが思い浮かびました。

 

棚の扉が勢いよくひらき、文房具が激しく散乱していく様子をみながら、

 

「ここで死ぬの?」と何度も天井を見上げました。

 

 

 

■歩いて帰宅する

 

揺れが収まり、みんなで事務所内を片付けしました。

 

どうやって帰ろうかと考えていると、夫が職場に迎えにきてくれました。

 

震災から2時間後くらいだったと思います。

 

そこから2時間かけて歩いて帰りました。

 

きっと食器など割れていて使えないだろうと途中でコンビニに寄り、紙皿や紙コップを買いました。

 

わたしたちが行った時には食べ物はほとんどなくなっていましたが、ほかに残っていた飴とキャベツを買った記憶があります。

 

電気が止まっているので、薄暗い店内で店員さんが商品の価格表を調べながら電卓でお会計していました。

 

帰り道はたくさんの人が歩いていました。

 

会社から渡されたヘルメットをかぶって帰宅している人もいました。

 

道路は車で埋め尽くされ、ちっとも進まない状態。

 

水道管が壊れて噴水のように噴き出しているところもありました。

 

ブロック塀はいたるところで崩れていました。

 

 

 

■被害状況を知ったのは翌朝

 

幸い、部屋の被害はありませんでした。

 

何も壊れていないことに夫と二人でおどろきました。

 

そのときは近所に、夫の親せきが運営するレストランがあり、そちらに集まりました。

(ちょっとした避難所になっていました)

 

夫の姉も街中の職場から2時間ほど歩いてきました。

 

連絡が取れない状態でしたが、こちらに来ればみんなと会えると判断したようです。

 

そのときは知りませんでしたが、姉は妊娠中だったようです。

 

妊婦さん、出産直後の方たちは本当に大変だったと思います。

 

震災の2年後に長女を出産しましたが、そこの産院に置いてあったメッセージノートに当時のことが記されていてショックで母乳が止まった・緊迫した避難状況などが書かれていました。

 

震災で生後まもない我が子を亡くした方が、数年後に同じ産院で出産したときのメッセージもありました。

 

 

***

 

 

親せきの家につくころにはすっかり暗くなっていました。

 

いつもは見えない星空がきれいだったのが印象に残っています。

 

そのころもケータイは古いものを使っていたので、ワンセグ機能がないものでした。

 

電気がとまりテレビも見れない状況だったので、親せき宅のラジオからの情報しかありません。

 

『〇〇地区で数百人の遺体が…』という放送を聞いてもピンときませんでした。

 

津波という単語をきいても、頭の中では洪水の映像しか思い浮かんでいませんでした。

 

街中が水没しているイメージ。

 

建物がめちゃくちゃになっているという状況を知ったのは、翌日のお昼に届いた新聞からでした。

 

「配達が遅れて申し訳ありません」というお詫びのメッセージの入った新聞。

 

新聞が届いたのにもみんなでとっても驚きました。

 

たった数ページの新聞でしたが、報道機関の「伝えたい!」という情熱が垣間見えました。

 

 

 

■親と親せきの安否

 

そのころのわたしと親との関係は最悪で、ほとんど連絡をとらない状態でした。

 

電話がきても「どうせまた嫌なことを言われる」と居留守をつかっていました。

 

でも、ラジオで『福島県で〇〇人死亡』と何度も聞いているうちに、この中に両親が入っているのでは?という不安が募り、泣きました。

 

そうしてはじめて、わたしはほんとうは両親が大好きなのだと悟りました。

 

 

しばらくして父と電話がつながり、二人とも無事なことがわかりました。

 

母は叔父・叔母と横浜にいました。

 

叔父・叔母は海の近くに住んでいたのですが、その日は法事のため横浜に行っていたのです。

 

家は土台以外全部流されてしまいましたが、この二人は親同然のわたしの恩人なので、二人が無事であることにもすごくホッとしました。

 

地震があったら2階に避難と決めていたようなので、もしも横浜に行っていなければ津波に巻き込まれていたでしょう。

 

本当は翌日の3/12(土)に法事と考えていたようですが横浜の親せきの仕事の都合で3/11(金)になったとのこと。

 

『ご先祖さまに守られたんだね』

 

普段そんなこと言いそうにない夫もそういってしまうほど、叔父・叔母は神様みたいな人たちです。

 

あの日はそんなちょっとした偶然でいろんな人たちの明暗がわかれたのだと思います。

 

 

 

■その後

 

冒頭の奈良出身の子は、そのまま仕事を辞め、奈良に帰りました。

 

原発事故のことがあったので、家族に戻ってこいと言われたようです。

 

しばらくは毎日2時間かけて会社に徒歩で通っていました。

 

わたしはアルバイトだったので動員されませんでしたが、職員の方は遺体安置所で仕事をされていました。

 

人手が足りないと、駆り出されたのです。

 

「つらい仕事になるだろうし、どうしても無理な場合は言ってください」と、上司が言っていました。

 

みなさん覚悟して行ったようですが、最初に出会ったのが7歳くらいの女の子で、泥だらけの足を持ったときに耐えられず泣いてしまったとききました。

 

 

3月末で、もともとの予定通りにその会社を辞めました。

 

送別の時期でたくさんの人たちが移動となりました。

 

その中で、部長の挨拶がずっと頭に残っています。

 

「安置所での仕事は、みなさんにつらい思いをさせてしまいました。ほんとうに申し訳ありませんでした。」

 

といって深々と頭を下げました。

 

何人かの方は泣いていました。

 

 

いつもニコニコした、おだやかな部長さんでした。

 

あれ以来会うことはないけれど、今も元気かなとこれを書きながらふと思いました。

 

 

 

ずいぶんと長くなってしまいましたが、わたしの震災体験でした。

 

 

 

 

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二人姉妹をそだてています

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