うまうまの徒然日記 -2ページ目

うまうまの徒然日記

つれづれなる、思いをつづっていきます。

時代遅れの男が送る暖かい視線。    

世の中捨てたものじゃないさ。

感動するとき、

鳥肌が立つという表現の時があります。

私が生まれて初めて、これを経験したのは、1964年10月10日の

このマーチを聴いた時でした


当時の日本は高度経済成長の真っただ中でしたが、そんなことは

小学生の私にはわかりませんでした。

むしろ個々の生活レベルはまだまだ低かったように思います。

あの当時は卵やバナナが高級品で、遠足などの特別な時にしか

持参できませんでした。

ご飯にも時々麦を混ぜていたのを思い出します。

近所の友達のお宅に遊びに行った際、非常に驚きました。

そのお宅のご飯がなにやら真っ黒なのです。

なんでだろうとよ~く見たら、すべて麦飯だったのです。


そんな小学時代に東京オリンピックが開催されたのです。

スポーツ好きの私は、指折り数えてその日を待ちました。

そして、その日がとうとうやってきました。

そのオープニングで聴いたそのマーチが私を熱狂させたというわけです。


そのマーチにそって各国の選手団が一糸乱れず続々と入場してきます。

そして昭和天皇の前に行進してきた選手たちは次々と帽子を脱ぎ、

敬礼していきます。

それに対して天皇も威厳をもって少しうなずくような表情で頭を少しだけ

下げられてご挨拶返しをされていかれました。


この高貴な威厳のある昭和天皇の表情は、いっては失礼ですが

もうかっこよかったです。

小学生ながら日本人としての誇りをしみじみ感じたわけなのです。


主役の懐かしい選手たちもよく記憶しています。

バレーボールの東洋の魔女

体操の遠藤選手

重量上げの三宅選手

ボクシングの桜井選手

体操のチャスラフスカ選手

マラソンのアベベ選手

100m走のヘイズ選手

などなど、言い出せば切りがありません



2週間の競技はあっという間に終わりました。

そして閉会式

この閉会式もかたずを飲んで食い入るようにみていました。

開会式の整然とした行進の再現をみんな予想していましたし、

そのようなプログラムだったようです。


が、なにかの手違いが起こったようでした。

もう各国の選手たちが国境を越えて他国の選手たちと

肩車をしたり、手をつなぎあったり隊列はもうめちゃくちゃ

行進曲なんかくそくらえとなりました。

しかしこんな底抜けにあかるく無秩序な閉会式が感動を

呼びました。

開会式とはまた違ったすばらしい閉会式でした。

こんな素晴らしい大会は今まで後にも先にもなかったような気がします。


そんな素晴らしい東京オリンピック

2,020年も是非再現してほしいものです。










先日、MRA検査の際に閉所恐怖症の体験を味わった。

その際に救ってくれた故郷の景色を無性に見たくなったのだ。

そして、お墓参りを兼ねて1週間前に帰郷したわけである。

また、母校の野球部の様子を見たかったのもある。

2年ぶりである。

その時は、息子が見たいというので連れてきたが、今度は

かみさんと一緒にきた。

むしろかみさんの方が積極的だったかもしれない。

その息子に母校で野球をさせたかったのだが、偏差値の関係で

あえなくギブアップしてしまった。


かみさんは私の母校にくるのは初めてである。

私はこの母校を見てもらいたかった。

自慢したかったのもある。

文武両道で質実剛健、礼儀正しいその校風は伝統的だ。


その母校に到着すると野球部がちょうど対外試合をグランドでしていた。

しばらくして、かみさんが何を思ったか、突如、野球部員に近寄り話しかけ

はじめたではないか。

なんかものすごく興奮している。

理由をきくと「選手がかぶっている帽子をみた瞬間、その帽子を

手掛けたのは私だ」とわかったそうである。

選手としてはぽか~んとしたような表情であった。

まあ、相変わらず社交的なお方だ。

自分が手掛けた帽子が手を離れ遠いところで活躍しているのを

みて思わず感動したらしい。


さてその社交的なかみさんを引き連れ、父方のお墓参りに行った。

いつものことではあるが、そのお墓の入り口に小学校の同級生の

家がある。

彼とは当時、野原や川、山などでよく遊んだ親友だった。

その家にもよくお邪魔したものだ。

しかし、小学校の高学年ぐらいから付き合いが途絶えた

クラスが変わったためである。

それ以来、一度も会っていない。

お墓参りに来るたびに、必ずその家の前を通るのだが、

一度も会えずにいた。

わざわざ家を訪ねて面会するのも気が引ける。

もはやそこまでの関係ではないのだろう。


しかし、今回、その家の前までくると二人の男がいる。

本能的にこのうちの一人が同級生ではないかと思った。


が、どちらが同級生なのか一瞬では判別がつかない。

もう数十年の時が経っているのだ。

じっくりを顔をのぞいたり、話しかけたりする勇気?が無かった。

黙って知らぬ存ぜぬの表情を装いその場を逃げるように後にしたのだ。

まったく非社交的な自分にわれながらあきれてしまった。

社交的なかみさんと非社交的な私の対比。

まあ、一生なおらないだろうな

と思いながら故郷をあとにしたのであった。







先日、MRA検査なるものを初めて受けた。

いわゆる脳検査である。

体にちょっと気になることがあったため、念のために受けてみたのだ。


このMRAという言葉は依然から知ってはいたが、まさか自分が

受けようなどとは思いもよらなかった。

この検査、狭いカプセルのようなところに入り15分ぐらい

脳の写真をとる。


私は閉所恐怖症ではないが、このカプセルに入って数分したあたりから

閉所恐怖症の気持ちがわかるような気がした。

自分の体が棺桶の中に収められるのはこういうことかもしれない。

棺桶の中にいる自分を想像した。


ヘッドフォンをつけられ静かな音楽がながれるのだが、途中から

写真をとるガーンガーンというすごい音がなりだした。

ヘッドフォンをつけなければ、うるさくてしょうがないだろう。


その棺桶のようなところに身を置いて数分後、深い地獄の

底に落ちていくような底知れぬ恐怖を感じ始めた。

恐怖との戦いである。

そこでとっさに浮かんだのが故郷の光景である。


なぜだか、小学校の正門あたりの光景がでてきた。

そのあたりにはひなびた文房具屋さんが2軒あった。

そして小学校の外壁、体育館。

相撲の土俵

その当時は体育授業の一貫で相撲があったのだ。

体育万能の私ではあったが、相撲は苦手だった。

どうも裸になってパンツの上からではあるが

まわしをつけるのがはずかしかったのだ。


そんなことを回想していたら、次第に恐怖を忘れていた。

そしてMRA検査が終わった。


そうだ、ひさしぶりに故郷に帰ってみるか。

その2週間後、本当に帰郷することになる。


MRAの検査結果を先生が説明し始めた。

たくさんの脳写真を並べている。

スイカを縦割りにしたような感じだ



結果

なんともなかった

正常そのものだった


しかし私にはどうも疑念が残る

この忘れっぽくうっかりする性格と

ぼ~っとする習慣は脳のどこかに隙間があるはずなのだ。