【映画「告白」からの告白】

映画業界では、有名な話なんですが。この撮影中に、スタッフが車で事故って死んでいるんですよね。 (中略) 制作トラックを運転して、日活に帰る途中に。木場かどこかで高速を降りようとして、前のトラックに突っ込んで、即死でした。一生懸命、頑張っていたスタッフだったのに、可哀想でした。その後の上司やプロデューサーの態度は、ちょっと問題ありでしたけど。

(「しょんぼりしょぼしょぼしょぼくれ記」 http://yaplog.jp/futiguti/archive/144#ct コメントより転載)

上記の映画「告白」は、言わずと知れた2010年度日本アカデミー賞・最優秀作品賞を受賞した、日本映画史に残る傑作である。

ベストセラーのミステリー小説を原作に映画化した本作は、学校を舞台にした少年犯罪をモチーフに、「命の重さ」をテーマにしている。
しかしながら、その映画の舞台裏でメインスタッフのひとりが、撮影中に亡くなっていたという事実は、世間にはまったく知られていない。

撮影中に亡くなった制作進行のAくん(享年22才)は、東放学園映画専門学校の2008年度卒業生で、私もまたその同窓生のひとりである。彼とはクラスこそ違ったものの、多くの授業で一緒になる機会があり、制作実習の授業では同じチームで、ともに映画制作をしたこともあった。彼は在学中からプロデューサー志望であったようで、学校の授業とは別に、仲間を集めて自主制作のグループを作ったりもしていた。人望も厚く、やる気もあって、人一倍頑張り屋、というのが私の知る彼の印象であった。

そんな彼は卒業後、まだわずか1年余りで、大手配給のメジャー映画の制作進行に抜擢されたのはすごいことだと思う。私は映画業界の内実にはそれほど明るくはないが、彼の他にも技術系のスタッフとしてメジャー映画に参加している友人はいても、彼らは何人もいる「助手」というポジションの末席に名を連ねているだけだが、Aくんはスタッフロールでも制作進行のトップに記されていた。それだけに彼もさぞかし気合が入っていたのだろう。だが、その頑張りが翻ってこのような不幸な最期に繋がるとは、当然本人も予想だにしなかっただろう。

事故直後、同級生からメールで連絡が回ってきて、そこには痛ましい事故のあらましと、現在彼の遺体は実家の方へ送られたため、東京の撮影所内に焼香台が設けられているので参列してほしい、と記されていた。
私は当時、会社勤めをしていたので、上司にその旨を伝えて早退し、撮影所へと足を運んだ。たくさんの同級生や先輩、後輩、学校の先生らが集まり、映画のセットのなかに設えられた簡易の焼香台の前で手を合わせた。撮影中にスタッフが撮ったらしい彼の写真が遺影として飾られていたが、そのみずみずしい笑顔は、彼が死んだということをまるで嘘みたいに思わせる、そんな笑顔だった。

それから半年経ち、映画は無事公開された。私は公開初日に見に行って、彼の名前をスタッフロールのなかに確認した。しかし、彼はこの映画のために命を落としさえしたのに、彼に対して特別に献辞が捧げられるなどのクレジットはなかった。ハリウッド映画などでは、撮影後や公開前に亡くなったスタッフ・キャストに献辞を捧げるのはよく見られるが、日本ではそういう例は見たことがない。しかし、それではあんまり寂しいではないかと、友人のひとりとしては思っていた。上映終了後に私はロビーにごった返しているたくさんの鑑賞客に向かって、Aくんのことを伝えたい衝動に駆られた。その場にいる人たちに、彼に黙祷を捧げてほしいと叫びたかった。しかし、彼のことを知らない多くの観客たちにとっては、そんなことはどうでもいいことだろうし、僕の気違いじみた行動が、観客たちの鑑賞後の雰囲気をぶち壊すのもいかがなものかと躊躇われ、結局そのまま何もせずに劇場を後にした。私には意気地が足りなかったのだ。

けれどもやはり、私はそんな煮え切らない思いをどうにかしたくて、その映画の公式ホームページで、感想を寄せてくださいと、Yahoo!映画レビューにリンクが貼られているのを見つけて、そこに上記の「Aくんへの献辞の件」について書き込んだ。しかし、どういうわけだか、その書き込みはその数日後にはキレイさっぱり削除されてしまったのだ。Yahoo!映画レビューでは、1度レビューを投稿した映画には、再びレビューを投稿することはできず、削除された文章をもう一度書き込むことはできなかった。私はその時はじめてこの件に関して、なにかひっかかりを覚えはじめた。

映画の公開とほぼ時を同じくして、私はAくんと同じ現場にスタッフとして参加していたという友人に会う機会があった。私は彼に会って話を聞くまで、彼がその映画に参加していたとは知らなかったので、事故直後の撮影現場の様子を聞いてみた。彼が言うには、事故の知らせを聞いた時はもちろんショックだったが、それ以上に彼が亡くなっても、その翌日の撮影日程には一切変更がなく、粛々と撮影が進んでいったことが、より一層堪えたのだという。彼にとっても、はじめて学生時代の友人と同じ現場で一緒になって嬉しかったようだ。しかし、そんな友人が突然亡くなってしまい、彼は普通に撮影に臨める精神状態ではなかっただろう。しかし、それでも撮影日程を遅らせることはできない。たった1日でも撮影が休止になれば、それだけで何100万円もの経費が無駄にかかってしまうし、公開日が決定している大手配給会社のメジャー映画だけに、その公開日を動かすことはほとんど不可能なのだという。そんな冷たい現実に彼は、映画業界というのはそういうものなのか、と思ったらしい。


Aくんが亡くなってから毎年、彼の亡くなった月に偲ぶ会が催されている。Aくんの親しかった友人が企画し、いまでは同窓会のような雰囲気で学校の同級生らが集まっている。そこには、東京に住んでいるAくんのお姉さんも毎年駆けつけていて、先日の会でもお会いしてお話をうかがった。さらにその場では聞けなかったことを、後日メールでお聞きした。ご家族はAくんの事故に関してどう思っているのか、率直に尋ねてみた。お姉さんによると、ご家族の方々はAくんの事故に関して、誰かを恨んだりするような気持ちはなく、彼は好きな仕事をして、その道半ばで亡くなってしまったけれど、ご家族としてはそのために撮影が中断されるのは本意ではないので撮影は続行してほしいと、監督はじめスタッフの方々に伝えたのだという。少なくともご家族と製作側との間では、軋轢などはなく円満に解決しているようである。労災認定などは受けたのかという質問もしたのだが、それについては明確な回答を頂けなかったのでわからない。


瀬川労災訴訟(http://www.geocities.jp/jiro2982/segawa1.htm )という映画業界の労災認定をめぐる事案がある。かいつまんで言うと、映画撮影中に脳梗塞で死亡したカメラマン・瀬川さんの遺族は、労働基準監督署に労災保険の遺族補償を申請したのだが、監督署の答えは「本件は、労働基準法第九条に規定する労働者とは認められないので、不支給と決定した」とのことだった。その後、遺族や映画業界関係者らが訴えを起こし、10数年の係争を経てようやく瀬川さんは労働者であることを認められた。しかしそれは、それまで映画の撮影現場におけるスタッフとは労働者として認められていなかったということである。

映画のスタッフは、数十年前に撮影所システムが崩壊した後、現在にいたるまで、ほとんどの人がフリーランスで働いている。つまりどこかの企業に正社員として所属しているのではなくて、映画制作のたびに現場に雇われる、いわば派遣社員のようなものだ。そもそも撮影現場とは下請けの工場のようなものなので、いわゆる映画会社の人間というのは現場には存在しない。映画会社の人間は企画や予算などを決めて、それを元に監督に制作を発注する。監督は知り合いのツテなどによってスタッフを集める。さらにメインスタッフは知り合いの若手を助手として呼んでくる、といった具合だ。撮影現場は昼も夜もなく忙しく、徹夜で働くのも当たり前、監督がOKを出すまで撮影は延々に続くなんてこともあるから、当然、報酬は時間給という訳にはいかない。もちろん現場にはタイムカードもないから、実質何時間働いているのかなんてわかるはずもない。

誰しも容易に想像がつくように、映画業界の報酬が明朗会計でないことはわかるだろう。おそらく、その実働時間に比して、不当なほどに賃金が低いのは明らかだ。つまり映画業界は、最近の言葉でいうところの「ブラック企業」だということになる。


映画業界のみならず、テレビやインターネット放送なども含めた映像業界は、すべからく皆ブラックだといってもよい。私は以前、アダルト系の映像制作の会社に勤務していたが、そこはまだマシな方だったと思う。私がアダルト系の会社に入った大きな理由のひとつとして、アダルト業界はなぜか土日休みのところが多いのだけれど、普通の映像業界ではそんなことはまずありえない。給料も他の映像関係の仕事に比べればだいぶ高い方で、初任給で20万円くらい貰っていた(他に面接を受けたテレビ関係の会社などは15万円前後が多かった)。しかも、そこはちゃんと残業代も働いた時間ぶん出ていたので、残業が多い月は残業代だけで10万円にもなることもあった。しかし、働き始めて2年目くらいからだったと思うが、残業代のシステムが変わり、「みなし残業代」という固定の残業代が付いて、どれだけ残業をしても一定の額しか給付されないというものだった。それは実質的な賃金カットである。

労働基準法が規定する「みなし労働時間制」というものがあるのだが、それは実働時間にかかわらず一定の給与を支払う雇用形態のことで、そのなかでも映像業界の仕事は特に「専門業務型裁量労働制」というものに属し、特定の専門職の場合、決められた時間に会社に出勤し、決まった時間だけ働く、といった勤務形態ではなく、いつ出勤するか、また何時間働くかなどといったことが、自由に決められるために、実働時間の時間給を適用せず、一定時間働いたものと「みなす」という給与体系になっている。これは映画撮影の現場に照らしてみれば、なるほどと思うだろう。早朝からの撮影というときもあれば、深夜から開始ということもあるし、撮影時間が何時間になるかは、現場の監督の裁量に委ねられている、ということである。それがもし時間給で賃金が支払われたら、監督は給料をたくさん貰うために撮影時間を遅延させることも可能になってしまうため、どんなに撮影に時間がかかっても、同じ時間ぶんとして「みなす」ことで無駄な賃金を支払わなくて済むのである。
(みなし労働時間制http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%97%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%99%82%E9%96%93%E5%88%B6


しかし、ここで問題になるのは、実働時間の裁量権があるのは、あくまで現場を指揮監督する人間「だけ」であり、その場で働いている末端のスタッフにはまったく裁量権はないことである。つまり、ただでさえ給料の安い末端のスタッフは、監督が撮影を遅延させればさせるほどに、無駄なサービス残業を強いられることになる。先に書いた私のいた会社の場合はまだしも、ちゃんと私自身に裁量権があった。その会社では、社員一人ひとりが毎月1タイトルのDVDの制作を担当し、自分でスケジュール管理ができるので、無理に残業を強いられることはなかった(たまに例外的に社員全員が合同で撮影をする場合があったが)。しかし、多くの映像業界ではそうではなく、末端のスタッフが自分のスケジュールを管理することなど不可能である。


学校の友人も含め、私の知り合いにはテレビのポスプロ(ポストプロダクションの略。映像の編集業務のこと)に勤めている人が多いが(一番身近なところだと私の弟と、私の彼女がいる)、その勤務形態はだいたい同じで、朝会社に出勤して、翌日の朝まで働き、その日は昼から休みで、また翌日は朝から出勤して・・・という繰り返しが、よくある基本パターンである。実働時間はほぼ24時間となり、ひどい会社になると36時間(1日半)とか48時間(丸2日)働き詰めとかいうこともある。しかし、これらの多くに「みなし労働時間制」が適用されており、時間ぶんの残業代は支払われてはいない、というのが現状である。彼らはあくまで決められた時間に出勤し、仕事が終わるまで退勤できないように拘束されている。それは、きわめてサラリーマン的な雇用形態であり、とても「専門業務型裁量労働制」などといった特殊な労働形態に当て嵌まるものではない。実際、「専門業務型裁量労働制」を規定する文言のなかには、「チームで対象業務に従事していても、そのチーム内で雑用のみに従事する者や、管理者の管理のもとにおいて業務遂行や時間配分が行われている場合については、その者について専門型裁量労働制は適用できない」と明記されている。

それでもまだ、テレビ業界はその多くがテレビ局や制作会社の正社員なので、あくまで会社からの雇用保険などの福利厚生を受けているぶん、圧倒的にフリーランスが多い映画業界に比べればまだマシだと言えるかもしれない。そもそも「みなし労働時間制」などというものは企業と従業員との労使契約なので、フリーランスの映画スタッフに適用できるものではないのかもしれない。となると、何の補償もされない映画業界で働く人たちは、労働者としてすらみなされていない、という瀬川労災訴訟の訴えは、今現在ですらはたして根本的に解決しているのか疑問である。


最近、話題になったニュースで、日テレのアナウンサー試験に合格した女子大生が、アルバイトでホステスの仕事をしていたことを理由に内定取り消しになり、その女子大生が「不当な内定取り消し」として日テレを訴える、という事案があった。この事案に対するコメントのなかに、「訴えを起こしてまでその会社に入っても、会社に居づらいのではないか?」というものがある。正当な権利を主張し、その結果その権利を得たとしても、周りから疎まれるのではないか、という懸念。これは、組織のなかで自分の正当な権利を主張する際の、もっとも大きな障害となることは間違いない。たとえば、先の「みなし時間労働制」のことでいえば、実働時間ぶんの賃金を要求することがたとえ法律的に可能でも、会社を相手に訴えを起こせば会社に居づらくなるのではないか、ということだ。つまり、その会社(ないし業界)で長く働きたければ、組織の論理に決して逆らわず、自分の身体(あるいは精神)を壊してまでも滅私奉公しなければならない、という空気(同調圧力)が社会全体に蔓延っているのだ。

さらに、日テレが件の女子大生を「清廉性の欠如」を理由として内定取り消しにした、というのはテレビ業界の傲慢さが透けて見えもする。ホステスのアルバイトが「清廉性の欠如」に当たるというのは、当該職業に対する差別や偏見が窺えるが、それ以上に女子アナという職業がなにか特別なものであるかのような「勘違い」がある。確かにアナウンサーは1000人に1人しかなれない憧れの職業であることは間違いないのだが、それを企業側が鼻に掛けるのはいかがなものかと思う。また私の例で申し訳ないが、私は学生時にテレビ関係の会社にも応募して、面接試験を受けたが、そのなかのひとつの会社では面接担当者が、「ウチに入ればゴールデン番組を作っていると自慢できるよ」などと恥ずかしげもなく言ってのけたので、私は思わず鼻白んでしまった。テレビ業界の人間とはかくも傲岸不遜で下品な人たちなのかと、心底がっかりし、「憧れの職業」というものにあぐらをかいている、業界の高慢さがよく見えた気がした。


Aくんの話に引きつけてみると、彼が亡くなってもなおご家族が彼の仕事を誇らしく思っていたのは、彼の仕事がほかならぬ「憧れの職業」だからであり、みずから憧れて飛び込んだ業界なのだから、その仕事の最中に亡くなったのも本人にとっては本望だったろう、というきわめて良心的な解釈によるものであろう。しかし本当に、好きな仕事のために命を落として本望な人間などいるのだろうか? そう思ってあげることでしか彼の気持ちを理解してあげられない、ご家族の心情は察するに余りある。そうでも思わなければやっていられない、というのが本音なんじゃないだろうか。かといって、では会社を訴えるべきなのか、といえばそうではない、とご家族は判断したのだろう。

しかし、Aくんの事故の件が不問に付されたことによって、事故の原因についての捜査も行われず、過労による睡眠不足が決定的な要因であったかどうかも定かではない。ゆえに、撮影現場ではこの件に関して、労務状況の改善を検討することさえしなかったのではないか。
冒頭で掲げたコメントは、おそらく同撮影現場にいたスタッフからの情報であろうと推察されるが、「その後の上司やプロデューサーの態度は、ちょっと問題ありでしたけど」というのはどういうことなのだろうか。撮影現場にいるスタッフが「問題あり」と感じるような態度とはいったいどんなものだったのか。ご家族が映画の責任者を訴えたりせず、事なきを得たために、これらすべての問題点がうやむやのままになってしまったのだとしたら、それはとても残念なことである。


映画のために命を落とすことさえ、家族にとっては名誉だというのならば、それほどまでに映画というものは尊いものなのだろうか? それはまるで戦争中に戦死した兵隊に死後、勲章が与えられるような「名誉の戦死」と大差ない。しかし、好きな仕事をして、その最中に死んだとしても、それは必ずしもその仕事のために命を賭けてもいいと思っていたかどうかはわからない。毎日、胸に溜まった不平不満を噛み殺して、必死に苦役に耐えていただけなのかもしれない。戦争に行って戦地で死んだ兵隊が、はたして本当に戦争に行きたかったのかと問えば、やはりそうではないだろうし、ましてや死んで故郷に帰れないなんて本望であろうはずもない。

映画業界のみならず、労働の現場というのはどこでも、厳格な規律に従って動いているという点では、あらゆる組織というものはじつは「軍隊的」なものなのだけれども、こと映画業界において言えるのは、その仕事じたいが「名誉」だという奢りである。もちろん、どんな仕事でも「名誉」あるものであり、「名誉」のない仕事などあるはずもないが、ことさらにその「名誉」を強調し、「名誉」のために殉死せよ、というきわめて「軍隊的」な空気が、こと映画業界において支配的であるという印象は禁じ得ない。


もしAくんの事故によって、その撮影が中止され、映画は公開もされずお蔵入りになったら、それはきっと日本映画界にとって大きな損失であっただろう。しかし、それははたして、人ひとりの命とどちらが重いのか、とやはり私は考え込んでしまう。誤解を恐れずに言えば、私はこの件を、「映画が人を殺した」のだと思っている。厳しい撮影現場による過労、そのために起きた居眠り運転による事故死、さらにはスタッフの死亡によってさえ撮影を中断できないという映画製作の残酷さ、または映画業界という憧れの職業であるために訴えすら起こさない遺族の方々、等々、まさに「映画」が彼を殺したと言っても過言ではないのではないか。