朝鮮人が「ぶちギレた」日 (下) | 右京時代

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朝青右京支部のブログです。

アンニョンハセヨ!

なんか前回の「上」を色々なところで宣伝してもらってるようでアクセス数もめちゃんこ伸びて驚いてます。

やはりそれだけ皆さん関心があり、重要な問題であると捉えておられるのでしょう。

さて、神奈川も埼玉も今回の核実験の影響を受け「県民感情から鑑みて…」という一見まともなように見えるまともでない理由から朝鮮学校への補助金を棚上げにしました。


あれ?行政の判断基準って法律じゃなかったの?人権じゃなかったの?
「県民感情」とかいう曖昧で流動しやすいものだったの?

なんか憤懣やるかたないですが、こういう時こそ原点に戻り考えていく必要があると思います。

前回投稿でも宣伝させていただいている留学同京都の演劇とあわせて、この内容がその一助になればと思います。


では「下」始めます。




4、大阪闘争


大阪でも、4月23日に約7000人が府庁前の大手前公園に結集して抗議集会が開き、庁舎内で座り込みをしたりしました。

そして、24日には前日に逮捕された179名の釈放を求め大阪市警へデモを行い、88名の釈放を勝ち取ります。

続いて26日、15000人の集会が開かれる中、代表たちと赤間大阪府知事との間で二度の交渉が持たれましたが、「朝鮮語で民族教育をすることが、治安に悪い。だから、朝鮮学校は閉鎖しなければならない。」と暴言を吐き交渉は決裂します。

その後、追い討ちをかけるように鈴木警察局長が、「5分以内に解散せよ」と通告します。1万以上の人数を5分以内で解散できるはずもないのにです。

それでも交渉委員たちは同胞大衆に警察の挑発にのらずに静かに解散するよう呼びかけます。手を出せば、警察に弾圧の理由を与えることになってしまうからです。

ところが、3分の2ぐらいが退出し始めた頃、一部の「同胞」(私服警察やスパイ)が警官隊のトラックに向かって石や砂を投げ始めました。

それを好機とみた警察は消防ポンプを同胞たちに向け放水し、その後歩道の茂みから発砲をしはじめました。

一斉に警官隊が群集に乱入し、弾圧を始めました。

当時14歳だった金花順さんはこの時に棍棒で頭部を殴られ重傷を受けました。結果、23名が重傷、213 名が検挙されました。


そして、その時の発砲によって亡くなったのが、金太一という16歳の少年でした。

徐元洙氏は知人から聞いた話として、その時の詳細をこう語られました。

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発砲直前、拳銃を構えている警察官に向かってあるハルモニが胸をはだけて、

「撃てるんやったら撃ってみろ!」

と叫んでいました。

ところが、警察は本当に撃つ様相をみせていました。

それを察知した金太一少年は、

「ハルモニはやく逃げてください危ないですからっ!」

と言ってハルモニをかばいました。

そして、かばいながら逃げてる最中に、後頭部より左眼への盲管銃創(弾が体内に残存)を受け、植え込みのコンクリートの枠に頭をぶつけました。


彼は単に「流れ弾」に当たって死んだのではないのです。

ハルモニをかばっているところを撃たれ、殺されたのでした。

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(実際に鈴木警察局長は「反抗してきたから発砲したというが、なぜ弾痕は皆後ろからなのか?後ろ向きで反抗してきたのか?」という記者の質問に対して、

「・・・・もうこうなったら少々殺してもよいと思う」

と答えています)。

後の解放新聞の取材で、太一少年のオモニはこう語っています。


「あの子は、可愛そうな子です。6つのとき父を失い、そのため勉強も人様のようにさせられませんでした。

・・・学校といえば小学校を4年で中途退学して、7人の家族を養うために工場で働き、行商に出歩いたり、つらいことばかりでした。

26日の朝は、人民大会にはいかないと私たちを安心させておいて、自分等友達同士では、学校を守るために参加しなくてはならんと言ってでかけたのです・・・」




5、京都闘争

京都でも、3月30日に9校に対する閉鎖命令が出され、それに対する抵抗運動が繰り広げられました。

まず、5月7日には円山公園野外音楽堂で朝鮮救国人民大会を開催し、大会終了後、数千人規模のデモ行進をします。

そして23日には、

「七条朝聯学院(旧第一学校)の借用期限がきれているし、朝聯の初等学院を追い出したらよい。

朝鮮人も馬鹿ではないから出るだろう。

もし出ないなら阪神のようにやったらよい。

日本の学校看板と朝鮮人学院の看板とを並べてかけることはバカらしい」


と発言した熊野喜三郎市議に対して謝罪の始末書を提出させます。

また6月30日には、朝聯京都第一初等学校で金太一少年追悼式が行われました。

そして、京都朝聯組織と当局との交渉の結果、「5.15覚書」を交わすことになりました。

この覚書には、教科書はGHQの検閲を受けなければならないなどの制約もありましたが、

・選択科目として朝鮮語、歴史など朝鮮独自の教育をおこなってもよい(第2項)
・日本の学校に通っている朝鮮人児童のための民族学級を設置してもよい(第6項)


などの画期的な内容が盛り込まれました。

まさにこの覚書は、朝連と京都府・GHQの「京都では阪神のような事件発生を未然に防ごう」という三者間の協調姿勢の結実ともいえるものでした。

しかし、1949年になると、京都市側は「第6項(特別学級の設置)が憲法14条の平等権に反する」や「教職員が不適格だ」と理由付けて、9月に再び閉鎖命令を出してきます。

(この命令により朝聯西陣小学校は翌年3 月23日卒業式を行った後で閉校することとなります。

ただ、1953 年4月20日に不屈の精神で同じ場所に京都朝鮮中級学校が創立されます。)

そして、武装警官が一時第一学校を強制的に占拠しましたが、同胞学父母たちが第一学校の校門を取り囲み1週間にも渡り闘争を行いました。

11月21日に学校設置認可を勝ち取り、「京都第一朝鮮人学校」と改名しあの第一初級学校として残ったわけです。


6、今日的意義


1948年5月5日、朝連本部と文部省との間で条件付(日本語を正課とする)ながら朝鮮人学校の存続を認める合意が成立します。

・授業は朝鮮語で行う
・教科書は朝鮮人自身で作り総司令部の検閲を受けたものを使用する
・経営管理は学父母が中心となって組織した学校管理組合が行う


これをきっかけに各地の闘争は落ち着き、その後細かい弾圧を受けながらも粘り強い交渉により私立学校としての認可を得ます。

(ちなみにあの神戸のアイケルバーカー中将は、闘争を鎮圧できなかった責任を問われてマッカーサーによって解任され、貨物船で寂しく帰国させられました)。

ただ、1949年に入ると、朝鮮戦争の下準備として日本政府は同胞団体と学校に対し以前よりはるかに暴力的な弾圧を加え始めます。

9月に朝連を解散させ、10月には全国一斉に武装警官を動員して民族学校の強制閉鎖をします。

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しかし、各地の同胞はこのときも決してくじけることなく闘争及び交渉を繰り返し、現在に至るまで民族学校を守ってきたわけです。


さて、これら一連の闘争は総じて一般に「4.24阪神教育闘争」と呼ばれています。

一番盛り上がりをみせた神戸と大阪での出来事を象徴にしているわけです。

しかし、僕は正直この名前では少し足りないように思うんですね。

この闘争は山口県の闘争を皮切りに、怒涛の勢いで津波のごとく東へと流れ、京都、そして東京の合意へと至っています。

地域は確かに異なりますが、各闘争の成果がどんどん重なっていき、その後の闘争へ受け継がれていったわけです。

つまり、京都の第一初級学校が残ったのは、朴柱範氏や金太一氏をはじめ各地方の同胞たちの闘争のおかげだともいえるわけなんです。

そして第一学校が残ったからこそ、後に第二、第三、中高級学校ができ今も存続しえているわけです。

とすれば、僕はやはりこの一連の出来事は「4.24阪神教育闘争」も含めた意味で、

「48(サーシッパル)民族教育闘争」

と名付けてもいいのではないかと考えます。

さて、もしかするとここまで読んだ人の中には「庁舎に乱入したり、知事とかに脅迫まがいのことをしたのだから、結局、暴動じゃないの?」と思われてる人がいるかもしれないですね。

確かに、手段として全く正当であったかといわれれば疑問もあるでしょう。

もっと紳士的な方法があったのかもしれない。

でもね、もう、朝鮮人、

ぶちギレちゃったんですよ、早い話が。

36年間も植民地支配され、
土地を盗られ、
生活の糧を求めてに日本に来たら「チョーセン、クサイ、アッチイケ」と罵倒され、
関東大震災では虐殺され、
名前や言葉や誇りまでも奪われ、
広島や長崎の軍需工場で働かされれば被爆し、
やっと帰国できると思ったら戦争が起きそうになり、
夢見た祖国は大国により分断される寸前の状態。

なんとか奪われた言葉や文化を教えようと自分たちで学校作ったら、今度は破壊されようとしている。

「我々だけがなんでこんな目に合わなあかんのじゃっ!
なんでまた邪魔すんねんっ!
朝鮮人として生きたいだけやろがぁっ!」


と思いっっっっっっきりぶちギレちゃたんですね。


ただ、それでもあくまで冷静に行動した方だと思います。

商店を壊し、金品を強奪したでしょうか?
知事や警察官が殺されました?
私服警官やスパイを群衆に潜ませて意図的に「暴動」を生じさせたのは誰ですか?
ネットもテレビも電話すらない状況で、自分たちの意見をどうやったら世間に伝えることができたんですか?
どうやって知事と交渉すればよかったんですか?
米軍みたいな世界最強の軍隊をバックにして脅しましたか?

朝鮮人が暴動を起こしたんじゃないんですよ。

米軍と日本政府が暴動を起こしたんです。

本来、米軍と日本には朝鮮人を解放民族として扱い、朝鮮人子弟の「学習権」を積極的に保障すべき責任があったんです。

にもかかわらず、植民地支配と皇民化政策の過ちを、植民地支配の終結後に再び犯したんです。

あれから60年以上も経ったわけですが、確かに細かい点は改善されてきました(在日同胞が自ら勝ち取ってきたものばかりですが・・・)。

しかし、「外国人の学校だから日本の学校より不利でいいんだ」という、この根本的観念・認識は全くもって変わっていないように思います。

むしろますますひどくなっている・・・。

どんな子供たちにも、自己のルーツを学び、明日への理想を実現する権利があるはずです。

目の前に生きている人が何人であれ、差別され抑圧されていいはずがない。

しかし、この当たり前のことが当たり前になっていないのが現状です。

僕らは手段や形式を変えつつも、まだまだ「ぶちギレる」必要があるのではないかと思います。

ただし、あくまで「心はHotに、頭はCoolに」

また、日本が「虹色の共生社会虹」になっていくには、自分とは異質のものを理解し受け入れることがなによりも重要だと思います。

となると、これはなにも朝鮮人だけの問題ではなく、日本社会自身の問題でもあると思います。

日本人も一緒に「ぶちギレ」ましょう。

実際に一緒に戦った日本人も当時たくさんいましたから。


では最後に、元朝鮮初級学校長の許南麒氏が詠んだ

「イゴシウリハッキョダ(これが私たちの学校だ)」

という詩を紹介して終わりたいと思います。


子供たちよ
これが 私たちの学校だ、

校舎はたとえみすぼらしく、
教室はたった一つしかなく、
机は
君たちが 身をよせると
キーッと不気味な音を立て
いまにもつぶれてしまいそうになり、
窓という窓には
窓ガラス一枚ろくに入れられなくて
長い冬は
肌をさく北風で
君たちのさくらんぼのような頬を
あおざめさせ、

そして雨の日には雨が、
雪の日には雪が、
そして一九四八年 春三月には
ときならぬ嵐がふきすさび、
この窓をたたき、
君たちの本をぬらし、
頬をうち、
あげくのはては
学ぶ自由まで奪いあげようとし、

見渡せば
百が百
何一つ満足なもののない
私たちの学校だ、

だが 子供たちよ、
君たちは
ニホンノガッコウヨリ
イイデス、と
つたない朝鮮語で
「おれたちも祖国が統一しさえすれば
日本の学校より
何倍も立派な学校を
建てることができるじゃないか」と
かえって
この涙もろい先生をなぐさめ、

そして また きょうも
カバンを背負い
元気いっぱい
学校に来るのだ、

子供たちよ、
これが 私たちの学校だ、
校舎はたとえ貧弱で
おはなしにならず、
大きなすべり台一つ、
ブランコ一つそなえられなくて
君たちの遊び場もない
見すぼらしい学校ではあるけれど、

ああ 子供たちよ、
これが ただ一つ
祖国を離れた遠い異国で生れ
異郷で育った君たちを
ふたたび祖国のふところにかえす
私たちの学校だ、

ああ
おさない 君たちよ、
朝鮮の同志たちよ。
(1948年4月、東京都京橋公会堂で開かれた朝鮮人教育不当弾圧反対学父兄大会に寄せた朗読のための詩)