【 墓碑銘がある キリシタン墓碑 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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 キリシタン墓碑は、全国で 192基ほど確認されています。

 長崎県に 146基、京都府 20基、大阪府 8基 などです。


 この内、 【墓碑銘があるキリシタン墓碑】 は、42基ほどですが、そこに刻まれている年代を調べてみますと、はっきりと 片寄りがあることがわかります。


      


 一番年代の古い墓碑は、大阪府四條畷市の千光寺跡地から出土した 「田原礼幡」(レイマン) の墓碑で、「天正九年」(1581年)のもの。

 つづいて、大阪府八尾市の共同墓地で発見された 「満所」(マンショ)の墓碑で、「天正十年」(1582年)のもの。共に、織田信長の頃のものになります。


 この後、1587年に 秀吉による 「伴天連追放令」 が出されていき、キリシタンに対する弾圧が厳しくなっていきますが、1598年に秀吉が死ぬまでの 1582~1598年の16年間には、碑文をもつキリシタン墓碑は出てきていません。


 私たちが よく見かけている、キリシタンとしての碑文をもった ほとんどの墓碑は、江戸時代に入った [慶長期] のものです。


「関ヶ原の戦い」 があった1600年が 慶長5年で、1615年・慶長20年まで続きます。

 1614年・慶長19年には、「大禁教令」 が発令され、髙山右近・内藤如安一家が 金沢を追われていき、長崎から、[国外追放] となり、マニラに向かいましたよネ。


【墓碑銘があるキリシタン墓碑】 が 全部で42基ある内、[慶長期] のものが 36基になり、ほとんど そのすべてである と言うことが出来ます。

 秀吉の死によって キリシタン弾圧が少しゆるめられ、そして、家康によって「大禁教令」が発令されるまでの キリシタンに対する政策が、ややゆるやかだった頃のものです。


 慶長に続く 元和に入ると、秀忠による 残虐極まる キリシタン弾圧が実施されていきますので、[元和期] のものは 4基確認されているだけで、長崎で発見された、「元和八年」(1622年)の 「富永二介妻」 の墓碑を最後にして、その後のものは一切、発見されていません。


● 大阪府茨木市の、千堤寺(せんだいじ)や下音羽 [もと髙山右近領] で発見されたキリシタン墓碑について見てみますと、

    ① 「くほまりや」     慶長 4年(1599年)  [蒲鉾型伏碑]

    ② 「佐保カラヽ」     慶長 6年(1601年)  [ 立碑 ]

    ③ 「上野マリヤ」     慶長 8年(1603年)  [ 立碑 ]

    ④ 「ぜにはらまるた」  慶長15年(1610年)  [蒲鉾型伏碑]

    ⑤ 「小泉○○」      慶長18年(1613年)  [蒲鉾型伏碑]