妙心寺 ・ 春光院にある イエズス会の鐘 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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Q. イエズス会の鐘が、どうして、京都の妙心寺・春光院にあるのですか。


A. 西洋式の釣り鐘で、表面に「1577」の西暦年と、「I H S」(Iesus Hominum Salvator・イエス 人類の救い主)のイエズス会の徽章が刻まれています。(国の重要文化財)


 京の都の四条坊門通りに建てられた、南蛮寺(聖母被昇天の教会)が献堂されましたのが、1576年8月15日でしたから、この教会で使用されていたものかもしれない、と考えられています。

 妙心寺の塔頭(たっちゅう)・春光院に伝わった経緯ですが、江戸の幕末の頃(嘉永7年・1854年)、それほど遠くない所にある仁和寺・龍華院から、金子(きんす)を用立てしてもらった借金の抵当に、「イスハヤという文字があるが、朝鮮伝来のもので、あやしいものではない。」という証明書を添えて、妙心寺・春光院に移されたものでした。

 その古文書によりますと、この半鐘は、①朝鮮伝来のもので ②最初、薩摩国にやって来ました。③仙台の龍宝寺へ ④仁和寺・自性院へ ⑤仁和寺・般若寺へ ⑥仁和寺・龍華院へ、そして⑦妙心寺・春光院へやって来たようです。


 鐘に刻まれている「 I H S 」を「イスハヤ」と読んで、「これは、朝鮮の言葉であって、決してキリシタン宗とは関係がないものである。」━━ と言っているわけです。

 キリスト教大禁教の江戸時代です。すべて、事情はわかっておられたはずですが、いろんな方々の配慮の中で、この鐘は守られ伝えられて来たわけですよネ。


 春光院に伝わってからも、実は、あの太平洋戦争のさ中、飛行機や大砲・軍艦などを造るために、家庭にある鍋釜までも供出するように軍から求められ、この寺にも、その要請がきました。

 その時、当時の住職は、寺と直接関係のないこの鐘を供出しようかと、一時は考えられたのですが、初期キリスト教の由緒ある鐘を、地中に埋めて守ってくださり、寺の別の大事な備品を代わりに、差し出してくださったのでした。

 感謝したいと思います。


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