★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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□■幻の力作・安土の屏風を宣教師に贈る信長■□


1581年(天正9年)         信長 48歳


信長は1580年より、安土城と安土城下の詳細な屏風を狩野永徳に描かせた。

宣教師の「1581年度日本年報」によると、この屏風は、信長監修のもと描かれ、実際の安土の風景と少しでも違う部分があると、描き直させたという程の力の入れ様である。

この屏風が完成すると、大変評判になったが、はじめ信長は一部の家臣にしか見せなかったという。
天皇もこれを見て所望したが、信長はそれを断り、この年ヨーロッパに帰る巡察師のヴァリニャーニに贈った。

信長は、ヴァリニャーニに贈る進物を何にしようか悩んでいた。
「高価なものはことごとくヨーロッパからの招来品であるため、意に叶うものが見付からない。
この屏風を協会に置いておくから、気に入れば貰ってくれればいいし、気に入らなければ、送り返すように。」と言って、ヴァリニャーニはこれをありがたく頂いた。


屏風が教会に届いて、見ようとした時に信長からの使者が来て、「気に入らなければ、信長に送り返すように」と伝言したとのことだが、この時、使者が”非常に楽しくかつ陽気に行なわれた”と書かれているが、どんな風だったのかが詳しく記されてないのが残念である。

この屏風は、しばらく教会に置いてあったようで、一目見ようと駆けつけてきた人が沢山いたようだ。

また、この屏風はヴァリニャーニが計画した天正遣欧少年使節団を通じて、1585年3月にローマ教皇グレゴリオ3世に献上され、その後、7年間はバチカン宮殿内の「地図の画廊」という展示室に置かれていたが、現在行方不明となってしまっている。

屏風が見付かれば、安土城や城下の様子が詳細に分かるので、是非とも見付かって欲しい。

信長は、もしかしたら後世まで安土のことが事細かに伝わるよう、実物と寸分違わぬように描かせたのかもしれない。
そう思うと、余計見たくなる。


①翻訳文


「1582年2月15日付、長崎発信、ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1581年度日本年報」

(前略)
私が語るべき恩恵の一つは日本の諸候が用いる類いの壁(パンノ)を信長が作ったことで、これは彼らの間では非常に珍重されており、屏風と称するものである。

彼が屏風を作らせたのは一年前のことであり、日本でもっとも著名な画工に命じて、これに当市と彼の城を実物と寸分違わぬほどありのままに、また湖および諸邸宅などすみずみまでを能うる限り正確に描かせた。
彼が実物と少しでも異なっていると思うところはことごとくすぐ消して新たに描かせたので、その(作業)には多くの時間を費やした。

結局、彼の好みの通りになったが、非常に出来栄えのよい完璧な作品であった。

この屏風は著名な画工が多大の熱意をこめて制作したものであり、信長はこのような作品に満足したいそう珍重したので、屏風は政庁所在地一帯で大いに評判となった。
その好評をさらに高めたのはごく少数の人にしか見ることができなかったことであり、これは信長が特別な恩恵として彼の寵臣数人に(限って)見せたからである。

評判は内裏の耳にも達し、彼は使者を介して信長にそれを見せるように請うた。
(屏風を見て)大いに気に入ったので所望する旨信長に伝えたが、信長は知らぬ風をしてこれを決して贈ろうとはしなかった。

彼は司祭が帰国する考えであることを知ると、彼の許に情愛あふれる丁重な伝言を送り、
(巡察)師はいとも遠方より謁見のために訪れ、当市に長期にわたって逗留し、信長が司祭に与えた家屋をたいそう尊重する意を示したので、(巡察)師に深く感謝するとともに記念および司祭たちに対する情愛の印として何かを贈り、同師が帰国する時に携えて行くことを望むが、貴重品について考えたところ、高価なものはことごとくヨーロッパからの招来品であるため意に叶うものが見つからない、
ただし、(そこの)その学院(コレジオ・神学校)を描いて持っていく希望があるならば(と考えて)、自分の屏風をお目にかけるために届けた、
もし気に入れば留め置けばよいし、気に入らねば送り返すように、と伝えた。


我らがまだ屏風を開いて見ぬうちに、さっそく、一人の武士が信長からの別の伝言を携えて到着し、屏風が(巡察)師の気に入らねばただちに彼の許へ送り(返す)ようにと伝えた。
これは非常に楽しくかつ陽気に(行なわれた)ので伝言と使者はこれを遣わした人の情愛と親しみをよく表していた。


司祭は屏風がどれほど気に入ったかを彼に伝え、信長はこれにたいそう満足して、司祭はこれにより彼の深い情愛を覚えるであろうと言い、なぜなら、かの品は大いに気に入っているものであり、内裏がこれを求めても断ったほどであるが、司祭に贈ることは大いに喜びとするからである。

それは彼が司祭に対していかに心を遣い尊敬しているかを日本中に知らしめるためであり、かつまたいかに恩恵を与えているのかの証とするためである、たとえ彼に千クルザードを与えたとしても、金銀にこと欠かぬため大したことではないが、己れの好む物を手離して司祭に与えることは、それだけにきわめて重視すべきことであると述べた。

この一件はすぐさま市中に、次いで周囲の諸国に伝わり、異教徒であれキリシタンであれ、信長がかくも多大の恩恵を司祭に与えたなどということを耳にするのがはなはだ新奇であったので驚嘆し、彼のことを幸福な人と呼んだ。

大身および武士たちがさっそく屏風を見るために、我らの修道院に駆けつけ始め、彼らに交じって三七(信孝)殿も訪れて深い喜悦を表し、彼の父が司祭に授けた恩恵を大いに高めた。

屏風を見るために参集した人は安土山はもとより、都、堺および豊後、その他司祭が通過した諸地方においても非常に多数であったため、諸人を満足させるには誰もが随意で見ることができるように教会で展示する必要があった。

こうして諸階層の男女が集まり、屏風を見た大身は皆、信長がこれを司祭に与えた次第を知って我らに好意を抱き、よい評価を示した。
(後略)

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参考文献

・『十六・七世紀 イエズス会 日本報告集 第Ⅲ期 第6巻』 松田 毅一 監訳、同朋舎、1991年
※この中に収録されている「1582年2月15日付、長崎発信、ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1581年度日本年報」より

 

 

 

 

 

 


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