二条城の建築現場監督・信長 | ★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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□■二条城の建築現場監督・信長■□


1569年(永禄12年)2月27日      信長 36歳


この年の正月に三好三人衆は京都の本圀寺の義昭を攻め、信長は大雪の中、一騎駆けをして、駆け付けた。(ブログ記事「自分で確かめる!! ~馬借の荷物編~」)

以後、このようなことがないように、信長は義昭のために堅固な城を二条の斯波義廉邸跡に建てることにした。

「ルイスの書簡」と『信長公記 巻二』に建設中の様子が記されていたが、いかにも信長らしいエピソードが多々描かれている。
面白ネタが多いので、箇条書きにしてみる。

信長は、現場監督として鍬(くわ)を持ち、大半の時間は手に竹を持って工事を指図した。
 →戦であろうと、建築現場であろうと、自分の目と足で確かめるという現実主義の信長の様子が窺える。

どこでも座れるように常に虎の皮を腰に吊るし、粗末な服を着ていた。
 →実用的なファッションの中にも、虎の皮を敢えて使うという、信長のお洒落心が見える。

工事中、市の内外の寺が鐘を鳴らすことを禁止し、城中の鐘のみは作業の開始と終了を知らせるために鳴らせた。
 →学校のチャイムの先駆けのようである。(笑)分かりやすくて、合理的。

堀の中に家鴨や色んな鳥を入れ、はね橋を架けた。庭園には、細川家の名石や慈照院(銀閣寺)の名石を置き、名木を植え、馬場には桜を植え、美観作りに尽力した。
 →芸術的で美しい城を建てるのが大好きな信長の美的センスがここでも光っている。

信長自身が細川家にある名石を貰いに屋敷に出向き、その石を綾錦で包み、花で飾りたて、笛・大鼓・鼓で囃したて、信長自身が指揮して御所に運んだ。
 →お祭り好きの信長の力が遺憾なく発揮されていて面白い。
  自分で出向いて行って、自分で指揮してしまう所も本当に信長らしく、想像すると微笑ましい。

この建築工事を70日間くらいの速さで終わらせた。
 →二万五千人くらいを動員し、各作業に監督を決めて、効率よく作業をさせたようだ。
  信長は、適材適所に人を配するのが上手い。

また、工事をしていた兵が見物に来ていた婦人の顔を見ようと、その被りものを上げようとするのを信長が見て、その者を手討ちにしたという。
やるべきことに集中せずに仕事をさぼって、婦人に対し無礼をはたらいたからであろうか。

以下、これらのエピソードが載っている、「ルイス・フロイスの書簡」と『信長公記 巻二』を紹介する。


■「1569年6月1日付、ルイス・フロイス師が都よりベルショール・デ・フィゲイレド師に宛てた書簡」■

①翻訳文

初めに彼はさっそく、二つの寺院を破壊させて四町四方の地所を得たが、日本の諸王候と貴人がことごとくこの工事に奉仕するために来たので、通常二万五千名が従事した。
彼らは皆、カルサン(丈の短いズボン)と皮製の短いカバイア(上衣)を身に着け、彼は筆頭の現場監督として鍬を携え、大半の時間は手に竹を持って工事を指図した。

既述の通り、いっさいの工事はかつて日本で見たこともない石造りとしたが、そのための石がなかったので、石の偶像を多数破壊するように命じ、それらの偶像は首に縄をかけられ、引きずって工事現場に運び込まれた。
都の人々は偶像を大いに崇敬していたので、このことは彼らに非常な驚きと恐怖をもたらした。
然して領主の一人と兵とともに毎日、各僧院より或る数量の石を彼のもとに運び、諸人は何事であれ、ひたすら彼を喜ばせ、少しもその意志に反しないようにしたので、石造りの祭壇を引き出し、仏、すなわち偶像を地に倒して破壊し、これを荷車で運んだ。

また、他の者は堀を造り、土を車で運んだり、山中の木を切ったりしたが、これは正しくエルサレムの殿堂の建築か、或いはカルタゴにおけるディドの工事の絵図を見るかのようであった。

(城の)外に水を満たした非常に大きな堀を造り、ここに多数の家鴨や種々の鳥を入れ、幾つかはね橋を架けた。
壁の高さは六、七ブラサあり、幅は場所により建築上の必要に応じて六、七、八ブラサであった。
そこにたいそう大きな門を三つと石造りの防塁を設け、その内側に別の狭い堀と日本で能う限りの趣に富んだ遊歩場を造った。
内部(の造り)が精緻にして清潔であることは言語に絶する。

彼は工事が続く間、市の内外の僧院が鐘を鳴らすことを禁じ、城中の鐘のみは人々を参集し、帰らせるために鳴らすよう命じた。
この鐘が鳴ると貴人や大身は皆一様に、各自の手勢を率い、鍬や(運搬用の)担架を手に工事に入る。


信長は常に座るための虎の皮を腰に吊るし、はなはだ粗末な衣服をまとっており、諸人は彼に倣って同様の皮を携えていたが、何ぴとも宮廷の装束で彼の前に現れる者はいなかった。
作業が続いている間、(工事を)見ようと欲する者は男女とも、尻切(しりきれ)と称する藁の草履を履き、頭に帽子を被って彼の前を通った。

或る時、工事に従事していた一人の兵士が一婦人の顔を見ようとしてその被り物を少し上げるのを、偶然、国主が目撃し、彼は即座に自らの手で彼の首を斬った。

この工事に関してもっとも驚嘆すべきは、彼がこれを信じ難いほどの短期間で行なったことである。
すなわち、少なくとも四、五年を要すると思われるものを七十日間で完了したのである。
以上は石材工事に関することである。



■『信長公記 巻二』■

①現代語訳

さて、(信長は)「これからは、きちんとした構えのある邸宅がなくては、如何かと思う。」と言い、おおよそ美濃、近江、伊勢、三河、五畿内、若狭、丹後、丹波、播磨十四ヶ国の衆を上洛させ、二条の古い邸宅の堀を広げさせて、将軍の御所として改築させることにした。

永禄十二年己已(つちのとみ)二月二十七日、辰の一点(午前七時半頃)に御鍬初めを行なった。
四方に石垣を内と外の両面から高く築き上げ、大工奉行として村井民部(村井貞勝)、島田所之助(島田秀満)を任命し、洛中洛外の鍛冶屋、大工、杣(そま・建材の切り出し、加工をする人達)を集め、隣国・隣村から材木を取り寄せ、それぞれに奉行を置いて、怠りなく務めさせたので、程なくして出来上がった。

御殿の家風が立派になるよう、こまごまと金銀を散りばめ、庭には池、流水、築山を造り、その上、「細川殿(細川昭元)のお屋敷に昔からある藤戸石という大石を庭に置こう」ということになり、信長自身が(屋敷に)出向き、この名石を綾錦で包ませて、様々な花で飾り付け、大綱を沢山付け、笛、大鼓、鼓で囃したて、信長が指揮をして、あっという間に庭に引き入れた。

これと並んで、東山の慈照院の庭に前々から置かれていた、九山八海という、都や田舎にまで知れ渡っている名石があるが、これも取り寄せて庭に置かせた。
その他にも洛中洛外の名石、名木を集めて、眺めの良いように尽くした。
同馬場には桜を植え、「桜の馬場」と名付け、残るところなく造らせた。


その上、諸大名には御所の前後左右に思い思いの邸宅を造らせたので、歴々が甍を並べたようになり、(将軍は)御安座された。

竣工のお祝いとして、(信長は)太刀と馬を進上した。
(義昭は)信長を身近に召し出し、かたじけなくも三献の礼をとり、将軍の御酌で盃を下さり、剣などを拝領した。
(信長の)面目が立ったことは、言うのも愚かしいほどのものであった。


②書き下し文

去て此の以後、御構これなく候ては、如何の由候て、凡(およそ)濃江勢三五畿内若狭丹後丹波播磨十四ヶ国の衆、在洛候て、二條の古き御構、堀をひろけさせられ、

永禄十二年己巳二月廿七日、辰の一点、御鍬初めこれあり。
方に石垣両面に高く築き上げ、御大工奉行村井民部、島田所之助に仰せ付けられ、洛中洛外の鍛冶、番匠、杣を召し寄せ、隣国隣郷より材木をよせ、夫々(それぞれ)に奉行を付け置き、由断なく候の間、程なく出来訖(おわ)んぬ。

御殿の御家風尋常に縷金銀をちりばめ、庭前に泉水、遣水、築山を構へ、其の上、細川殿御屋敷に藤戸石とて往古より大石は、是れ御庭に立て置かるべきの由にて、信長御自身御越しなされ、彼の名石を綾錦を以てつつませ、色々花を以てかざり、大綱余多付けさせられ、笛、大鼓、鼓を以て囃し立て、信長御下知なされ、即時に庭上へ御引き付け候。

幷(ならび)に東山慈照院御庭に一年立て置かれ候、九山八海と申し候て、都鄙に隠れなき名石御座候。
是れ又、召し寄せられ、御庭に居えさせられ、其の外、洛中洛外の名石、名木を集め、眺望を尽くされ、同馬場には桜をうへ、桜の馬場と号し、残る所なく仰せ付けらる。

其の上、緒候の御衆、御構への前後左右に思々の御普請、歴々甍を並べ御安座□(口偏に刷)、御祝言の御太刀、御馬御進上。

御前へ信長召し出だされ、忝くも三献の上、公儀御酌にて御盃幷びに御剣色々御拝領。
御面目の次第、申すも愚かに候。


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ちなみに、信長が指揮してお囃子をしながら運んだという「藤戸石」は、現存している。

 
真ん中の石が「藤戸石」  (castles.jpのブログ様より)
  
今は、京都の醍醐寺の三宝院の庭園にある。

この地に来た由来は、信長が細川昭元邸から足利義昭の二条邸に運び込んだ後、天下を獲った秀吉は聚楽第の庭に移し、1598年(慶長3年)に醍醐寺で花見を催すにあたって、復興中だった醍醐寺三宝院の庭園に置いた。

京都を訪れた際は、是非見てみようと思う。

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参考文献

・『十六・七世紀 イエズス会日本報告集 第Ⅲ期 第3巻』 松田毅一 監訳、同朋舎、1998年
※この中に収録されている「1569年6月1日付、ルイス・フロイス師が都よりベルショール・デ・フィゲイレド師に宛てた書簡」より
・『史籍集覧 19』 近藤瓶城 編、近藤出版部、1902-1926年
 ※この中に収録されている『信長公記 巻十三』より
・『現代語訳 信長公記』 太田牛一 著、中川太古 訳、中経出版、2013年

 

 

 

 

 

 

 

 



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