戦後日本の礎を築いた宰相、吉田茂は軍人嫌いで有名だった。その吉田が、ただ一人、心を許した陸軍軍人に辰巳栄一中将がいた。吉田が重用した白洲次郎が「経済の密使」なら、辰巳は首相の「影の参謀」であった。再軍備を拒んできた吉田に、最後は「深く反省している」といわせた辰巳とはどんな人物だったのか。日米安全保障条約の改定50周年を迎えたいま、日本自立に向けて彼らがいかに苦闘して挫折したか、その謎に迫る。
神奈川県大磯町の吉田茂邸は、旧東海道の松並木が途切れるその先にあった。秋の深まりとともに相模湾から吹きつける海風が冷たい。
一目でロンドン仕込みとわかる老紳士が吉田邸の門をくぐった。三つぞろいの背広に帽子を目深にかぶり、背筋がピンと伸びていた。檜皮葺(ひわだぶき)のその門は、吉田が首相として成し遂げたサンフランシスコ講和条約を記念して造られ、別名を「講和門」という。
辰巳栄一の大磯訪問は、吉田が政界を退いて久しい昭和39(1964)年秋のことである。吉田の書斎は、京都の宮大工に造らせたという豪壮な数寄屋風建築の2階にあった。
吉田が「大磯詣で」の政治家たちと会うときは、玄関右手の洋間を使った。だが、親しい人物が来訪した折だけは、眺めの良い2階の書斎に招いた。辰巳はいつものように、畳敷きのその小ぎれいな書斎にのぼった。
10年前の29年暮れに吉田が首相を辞任すると、辰巳も政治向きの仕事一切から手を引いた。それ以前から、吉田から声がかかれば気軽に大磯を訪れた。
■「軽武装」翻させた建言
辰巳の長男で、元商社マンの敏彦氏の記憶だと、世田谷区成城の自宅で「ちょっと出かけてくる」というときは決まって大磯へ向かった。辰巳は吉田が駐英大使の時代に陸軍駐在武官としてロンドンに赴任し、ともに日独防共協定の阻止に動いて挫折を味わった。
辰巳には戦場での勇ましい逸話があるわけではない。30年にわたる軍歴のうち、10年は3回にわたる英国勤務であった。陸軍きっての国際通であり、英米を敵とすることに一貫して反対した。
英米軍の極秘情報入手など情報部門で活躍し、総力戦研究所の創設を進言するなどの先見性があった。陸軍中央の意に反して三国同盟に反対し、ロンドンから「ドイツ勝てず、英国滅びず」と打電し続けた。
帰国して東部軍参謀長になると、東条英機首相の反対をものともせず、学童疎開を実現したのも辰巳である。戦後に有為の人材を温存することができたその功績は、“百戦の勝利”よりも重い。
戦後は軍人嫌いの吉田に請われて首相の秘密軍事顧問になった。吉田の片腕として自由に動いた白洲次郎と違って、辰巳は決して表舞台には出なかった。吉田に憲法改正と再軍備をたびたび進言し、激論の末、「いまだその時期ではない」とする吉田が癇癪(かんしゃく)を起こすことも再三だった。
吉田と辰巳は、米国のように過度に軍事力に依存せず、なるべく非軍事的な手段の組み合わせで「国のかたち」を考えた。何とか警察予備隊(後の自衛隊)をつくり、内閣調査室を英国のMI6(秘密情報部)なみの情報機関に拡充すべく動いた。
さて、昭和39年11月半ばのその日、吉田と辰巳は、昼からウイスキーを飲んでいた。大磯・吉田邸の書斎からは、晴れた日に相模湾を越えて富士山を眺めることができた。昼食後だったが、吉田は2時間以上にわたり懐かしい日々を振り返った。
やがて、吉田は改まるようなしぐさをした。少なくとも辰巳にはそう見え「様子がいつもとは違うな」と感じていた。吉田は少し間をおいて切り出した。
「君とは以前、再軍備問題や憲法改正についていろいろ議論したが、今となってみれば、国防問題について深く反省している。日本が今日のように国力が充実した独立国家となったからには、国際的に見ても国の面目上軍備を持つことは必要である」(『偕行』昭和58年2月号)
辰巳は耳を疑った。首相時代にあれほど日本の再軍備を嫌った吉田が、その必要性を初めて口にした。吉田はたびたび憲法改正を促す辰巳の建言に、「いったん制定された以上、5年や10年でそうやすやすと改正されるものではない」と怒気を強めて否定したはずだ。
その人物がいま、決して曲げることのなかった自らの「経済優先・軽武装」路線をものの見事に翻していた。=敬称略
(特別記者 湯浅博)
【プロフィル】辰巳栄一
元陸軍中将。明治28(1895)年佐賀市生まれ。佐賀中(旧制)を経て大正4年陸軍士官学校卒(27期)、14年陸大卒。昭和3年臨時第3師団参謀、駐英大使館付武官補佐官、同武官など3度の英国駐在。東部軍参謀長、第3師団長として中国大陸で終戦。50年から偕行社会長。63(1988)年93歳で死去。弟、繁は海軍主計大佐。
◇
あす14日から毎週日曜日のオピニオン面に掲載します。
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一目でロンドン仕込みとわかる老紳士が吉田邸の門をくぐった。三つぞろいの背広に帽子を目深にかぶり、背筋がピンと伸びていた。檜皮葺(ひわだぶき)のその門は、吉田が首相として成し遂げたサンフランシスコ講和条約を記念して造られ、別名を「講和門」という。
辰巳栄一の大磯訪問は、吉田が政界を退いて久しい昭和39(1964)年秋のことである。吉田の書斎は、京都の宮大工に造らせたという豪壮な数寄屋風建築の2階にあった。
吉田が「大磯詣で」の政治家たちと会うときは、玄関右手の洋間を使った。だが、親しい人物が来訪した折だけは、眺めの良い2階の書斎に招いた。辰巳はいつものように、畳敷きのその小ぎれいな書斎にのぼった。
10年前の29年暮れに吉田が首相を辞任すると、辰巳も政治向きの仕事一切から手を引いた。それ以前から、吉田から声がかかれば気軽に大磯を訪れた。
■「軽武装」翻させた建言
辰巳の長男で、元商社マンの敏彦氏の記憶だと、世田谷区成城の自宅で「ちょっと出かけてくる」というときは決まって大磯へ向かった。辰巳は吉田が駐英大使の時代に陸軍駐在武官としてロンドンに赴任し、ともに日独防共協定の阻止に動いて挫折を味わった。
辰巳には戦場での勇ましい逸話があるわけではない。30年にわたる軍歴のうち、10年は3回にわたる英国勤務であった。陸軍きっての国際通であり、英米を敵とすることに一貫して反対した。
英米軍の極秘情報入手など情報部門で活躍し、総力戦研究所の創設を進言するなどの先見性があった。陸軍中央の意に反して三国同盟に反対し、ロンドンから「ドイツ勝てず、英国滅びず」と打電し続けた。
帰国して東部軍参謀長になると、東条英機首相の反対をものともせず、学童疎開を実現したのも辰巳である。戦後に有為の人材を温存することができたその功績は、“百戦の勝利”よりも重い。
戦後は軍人嫌いの吉田に請われて首相の秘密軍事顧問になった。吉田の片腕として自由に動いた白洲次郎と違って、辰巳は決して表舞台には出なかった。吉田に憲法改正と再軍備をたびたび進言し、激論の末、「いまだその時期ではない」とする吉田が癇癪(かんしゃく)を起こすことも再三だった。
吉田と辰巳は、米国のように過度に軍事力に依存せず、なるべく非軍事的な手段の組み合わせで「国のかたち」を考えた。何とか警察予備隊(後の自衛隊)をつくり、内閣調査室を英国のMI6(秘密情報部)なみの情報機関に拡充すべく動いた。
さて、昭和39年11月半ばのその日、吉田と辰巳は、昼からウイスキーを飲んでいた。大磯・吉田邸の書斎からは、晴れた日に相模湾を越えて富士山を眺めることができた。昼食後だったが、吉田は2時間以上にわたり懐かしい日々を振り返った。
やがて、吉田は改まるようなしぐさをした。少なくとも辰巳にはそう見え「様子がいつもとは違うな」と感じていた。吉田は少し間をおいて切り出した。
「君とは以前、再軍備問題や憲法改正についていろいろ議論したが、今となってみれば、国防問題について深く反省している。日本が今日のように国力が充実した独立国家となったからには、国際的に見ても国の面目上軍備を持つことは必要である」(『偕行』昭和58年2月号)
辰巳は耳を疑った。首相時代にあれほど日本の再軍備を嫌った吉田が、その必要性を初めて口にした。吉田はたびたび憲法改正を促す辰巳の建言に、「いったん制定された以上、5年や10年でそうやすやすと改正されるものではない」と怒気を強めて否定したはずだ。
その人物がいま、決して曲げることのなかった自らの「経済優先・軽武装」路線をものの見事に翻していた。=敬称略
(特別記者 湯浅博)
【プロフィル】辰巳栄一
元陸軍中将。明治28(1895)年佐賀市生まれ。佐賀中(旧制)を経て大正4年陸軍士官学校卒(27期)、14年陸大卒。昭和3年臨時第3師団参謀、駐英大使館付武官補佐官、同武官など3度の英国駐在。東部軍参謀長、第3師団長として中国大陸で終戦。50年から偕行社会長。63(1988)年93歳で死去。弟、繁は海軍主計大佐。
◇
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