蘇我氏の出自再論(9) | 気まぐれな梟

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 今日は、赤い鳥の「窓に明かりがともる時」を聞いている。


 倉本一宏の「蘇我氏ー古代豪族の興亡(中公新書)」(以下「倉本論文」という)では、


 ⑨「蘇我氏は葛城地方の中東部にあたる曽我の地に進出し」、「この蘇我の地を地盤とすることで氏(ウヂ)として成立し、葛城氏の大多数を傘下に収めた」という。


 そして、この「曽我」の地は、大和国高市郡曽我(現在の奈良県橿原市曽我町)であり、「西に行けば難波に抜ける葛下斜交道路や大坂道、東に行けば伊勢に達する初瀬道(プレ横大路)、そして北に行けば大和盆地北部に向かう筋違(後の太子道)南に行けば、吉野や紀伊を目指す葛城道や巨勢道の交差する、まさに交通の要衝だった」という。


 これは確かにそうである。

 それでは、この「曽我」の地名は、どこから、誰によって付けられた地名であろうか?


 黛弘道の「律令国家成立史の研究(吉川弘文館)」に所収された「ソガおよびソガ氏に関する一考察(以下「黛論文」という)によれば、「ソガなる地名が何に由来するか、あるいは何を意味するか」については、以下のとおりである。


 ①「万葉集」に所収された短歌では、「宗我」にかかる枕言葉は、「ま菅よし」と「山菅の」と「ま蘇我よ」であるので、「菅(スガ)」は「蘇我(ソガ)」とも言われており、「ソ」と「ス」の音は交代しやすいことから、「ソガ=スガ」であった。


 ②伴信友の「神名帳考証」によれば、下総国千葉郡の蘇賀比咩神社や伊勢国壱志郡の須加神社、但馬国二方郡の須加神社の祭神は、分注では能登国の菅忍比咩神社の祭神の「菅忍比咩」とされていて、ここからも「スカ=スガ=ソガ=ソカ」であり、それは、須加神社がある伊勢国壱志郡の須可(スカ)郷は、今川了俊の「難太平記」では、「そか」と呼ばれていることからも明らかである。


 ③しかし、「和名抄」では、「カとガの区別をほとんどしていない」ので、「和名抄」の「スカ」は、全てが「スガ」であるとはいえず、「日本地理志科」では、地名の「須可」は「洲処」の意味であるといっている。


 ④以上から、「地名スカからソガを考えることには大きな限界がある」ので、「ソガは菅という草の名に因む」と考えられ、「菅が美しく生い茂る情景をそのまま形容詞として用いたものであ」る。


 ⑤この「菅」とは、古代では、「清浄・神聖という属性を有し、かつ物を浄化するという呪術的な力をも有すると信じられていた」。


 ⑥「ソガの地はスガの繁茂するスガ川に沿った地域であ」り、「そのスガが清浄・神聖で呪術的な力を持つものである」ので、「スガの繁茂するソガの地が神聖視された」


 ⑦曽我に鎮座する宗我都比古神社の祭神の「ソガツヒコ」は「スガツヒコ」であり、菅を神格化したもの」であり、「ソガの地やソガ川は天石窟神話と深い関係を持つ」、宗教的権威のある地であった。


 ⑧蘇我氏は、河内国の石川地方から大和国に移住してきたときに、大和朝廷の中で最有力な豪族となるために、曽我の地に移住することで、それまではなかった宗教的な権威を蘇我氏に付与しようとしたのである。

 

 このように、黛論文では、「曽我」の地名は、結局は、植物の「菅」が繁茂していたから付けられた、という。


 しかし、「菅」はそれほど珍しい植物ではなく、「菅」が繁茂していた場所は、古代には、全国各地に存在していたと考えられる。


 だから、「菅」の繁茂が「曽我」の地名の由来とは考えられない。


 また、宗我都比古神社は、正式には、宗我坐宗我都比古神社という。


 畑井弘の「天皇と鍛治王の伝承(現代思潮社)」(以下「畑井論文」という)によれば、神社の名称の「坐」は動詞ではなく名詞であり、その意味は、「鎮座している」ということではなく、朝鮮語で始祖の意味の「マツ」が音転した「マス」であるので、その地を開拓した始祖である国魂を祭る神社が「坐」が付けられた神社であるという。


 ここから、宗我坐宗我都比古神社は、「曽我」の地を開発し始祖的な人物を

「曽我」の国魂として奉斎した神社であったと考えられる。


 そして、「曽我」の地名が、「清浄・神聖で呪術的な力を持つ」という、植物の「菅」に由来しないことから、宗我坐宗我都比古神社に取り立てて言うほどの宗教的な権威があったとも考えられない。


 だから、黛論文の主張には従えない。

 

 「古事記」の「建内宿禰」の系譜や「紀氏家牒」の蘇我氏系図では、「蘇我」を「蘇賀」と表記している。


 畑井論文によれば、伊賀、加賀、雑賀、甲賀、滋賀、佐賀、敦賀、多賀、芳賀、浦賀、那賀、横須賀、浜須賀、久賀などの、「賀(ガ)」は「在り処(ありか)」の「処(カ)」と同じ意味で、朝鮮語で国や土地の意味である。


 そして、「蘇我」は「蘇賀」であり、「蘇(ソ)」の「国(賀=ガ)」であり、この「蘇」とは、朝鮮語の「辰(ソ・ス)」であると考えられる。


 畑井論文によれば、「飛鳥」の地名も、朝鮮語の「小(ア)」「辰(ス)」「国(カ)」から来るという。


 「アスカ」」から接頭辞の「ア」を取れば「スカ」になり、「ス」は「ソ」に、「カ」は「ガ」に音転するとすると、「スカ」は「ソガ」となる。


 ここから、「曽我」とは、朝鮮語で「辰国」の意味であり、百済からの渡来人たちが周辺の手つかずの原野を開拓して定住した土地につけた地名であったと考えられる。


 そして、「曽我」の地名を付けた百済からの渡来人たちは、大和国高市郡に移住してくる前は、河内国の河内飛鳥に居住していたと考えられる。


 河内飛鳥にも「曽我」と同じ地名がある。


 門脇禎二、水野正好編の「古代を考えるー河内飛鳥(吉川弘文館)」に所収の水野正好の「河内飛鳥と漢・韓人の墳墓」(以下「水野論文」という)によれば、河内国石川郡には大規模な後期古墳群である「一須賀古墳群」がある。


 水野論文によれば、以下のとおりである。


 この「一須賀古墳群」の古墳は、石室の構造は、「側壁は上ほど大きな石材を用い、天井に近づくほど、持ち送る「せり出し技法」を用い、「玄室・羨道境に石積して階段を作るという特異な構造」である。


 また、「一須賀古墳群」の古墳には、竈と炊飯俱をかたどった「竈形代」が、副葬品として供献されている。


 こうした「石室の構造」や「副葬品」は、近江国滋賀郡大伴郷(現滋賀県大津市北郊)にある、三津首、穴太村主、志賀漢人、大友村主などの漢人系氏の渡来氏族が築造した古墳群や、現奈良県南葛城郡の、忍海漢人や山口忌寸が築造した古墳群、現兵庫県芦屋市の、芦屋漢人が築造した古墳群と共通である。

 これらから、「一須賀古墳群」などのこれらの古墳群は、漢人ー百済系渡来氏族が築造した古墳群であったと考えられる。


 「一須賀古墳群」がある「一須賀」は、河内国石川郡の雑居郷、大国郷の地であり、「一須賀古墳群」は、石川郡の大友史や板持連、山口忌寸などの渡来系氏族だけではなく、錦部郡の渡来系氏族も含めた彼らの共通の墓域であったと考えられる。


 門脇禎二、水野正好編の「古代を考えるー河内飛鳥(吉川弘文館)」に所収の山尾幸久の「河内飛鳥と渡来氏族」(以下「山尾論文」という)によれば、河内国石川郡の「一須賀」には、式内社の「壱須可(イスカ)神社」があり、この「イスカ」が「イシカワ」となって、石川郡の郡名となったという。


 山尾論文では、ここから、「一須賀」の地は、石川の地名が発生した地であり、ここに後世の石川郡衙が存在したと考えられる、石川郡の中心地であった。


山尾論文がいうように、「石川」の前の地名が「一須賀」であり、それが「イスカ」と呼ばれていたのなら、畑井論文がいうように、「出雲」が朝鮮語の美称の「イ」+朝鮮語で「囲」や「周」の意味の「トリ」「ツリ」から来た「ツモ」であり、「和泉」が同じく朝鮮語の美称の「イ」+朝鮮語で「囲」や「周」の意味の「トリ」「ツリ」から来た「ツミ」であることから、「イスカ」も、朝鮮語の美称の「イ」+朝鮮語で「辰国」の意味の「スカ」であり、「一須賀」とは朝鮮語で「美しく良きわれらが辰国」という意味であった考えられる。


 ここから、「一須賀」や「曽我」、そして、全国各地の「須賀」を含む地名は、百済からの渡来人たちによってつけられた地名であると考えられる。


 そして、そうした地名がつけられたのは、蘇我氏の指導によって、6世紀半ば以降に、全国各地に「屯倉」が設置され、そうして設置された「屯倉」を運営するために、それらの「、屯倉」に伽耶諸国や百済からの渡来人たちが配置されて以降であったと考えられる。


 「屯倉」の設置が、その「屯倉」の耕地を耕作する農民を「国造」が確保して初めて完成することから、「出雲国造」の設置も、出雲に「屯倉」が設置されるのとほぼ同時であると考えられるので、出雲と朝鮮半島東南部との交流は、弥生時代から盛んであったが、「出雲」の地名は、6世紀半ば以降、出雲に「屯倉」が設置され、渡来人が配置されたそのときにつけられたと考えられる。


 だから、渡来人の主要な流れは、4世紀末から5世紀終わりまでは、紀伊国→河内国→大和国であり、6世紀以降、特に6世紀半ば以降は、それらの国から、出雲国や備前国、備中国/近江国、尾張国、信濃国/筑前国、肥前国などに向かっていたと考えられる。 


 蘇我倉氏は、蘇我馬子の子の蘇我倉麻呂が、蘇我本宗家から独立して形成されたが、蘇我倉麻呂の子は蘇我倉山田石川麻呂であり、その後裔の蘇我安麻呂が、:天武天皇から石川朝臣を賜姓されているので、蘇我倉氏の拠点は、河内国石川郡にあったと考えられる。


 そして、蘇我倉氏が、蘇我馬子の子の代に蘇我本宗家から独立して形成されたということは、蘇我倉氏が独立する以前は、河内国の石川郡の蘇我氏の拠点は、蘇我本宗家が掌握していたと考えられる。


 この蘇我本宗家の石川郡の拠点は、「一須賀」の地であったと考えられる。

 また、倉本論文が指摘するように、「曽我」の地は、「交通の要衝」であったが、蘇我氏が、そうした「交通の要衝」に拠点を形成した理由は、そこを拠点として、まだ手つかずの原野であった「飛鳥」の地を開発しようとしたためであったと考えられる。


 門脇禎二の「飛鳥ーその古代史と風土(吉川弘文館)」(以下「門脇論文」という)によれば、「飛鳥は広大な平野部にあるのではなく、高低の多い、小田圃が入り込む灰色・黄褐色土壌を朱とする地域であ」り、こうした「灰褐色土壌・黄褐色土壌群に開発が進んだのは、朝鮮から伝わった鉄製U字型クワ・スキ・曲刃の鉄鎌による北方系の乾田農法、「中干法」によったもの」である。


 だから、大和の飛鳥は河内の飛鳥よりも後に開発されたと考えられる。


 ここから、木満致の子の蘇我稲目が、大和国高市郡の「曽我」に進出する前に拠点としていたのは、河内国石川郡の「一須賀」であったと考えられ、この「一須賀」から「曽我」に、百済からの渡来人たちが蘇我氏とともに移住していったと考えられる。


 そして、「一須賀」の地名も、「須賀」から付けられた地名であり、その意味は、「曽我」と同じように、朝鮮語の「辰(ス)」「国(賀=ガ)」であり、百済からの渡来人たちが定住した土地に付けた地名であったと考えられる。


 倉本論文は


 ⑪「さらに蘇我氏は、渡来人が多く居住していた大倭の飛鳥地方と河内の石川地方に進出し」、「大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって、政治を主導することとなった」という。


 ここから、倉本論文は、蘇我氏は、葛城→曽我→飛鳥/石川というように移住していったという。


 しかし、前述したように、葛城氏と蘇我氏では、組織していた渡来人が異なっていたので、葛城→曽我はあり得ない。


 門脇論文によれば、飛鳥の近くに初めに移住してきた朝鮮半島南部からの渡来人は、5世紀に「檜前」に移住してきた、檜前民使氏や檜前調使氏、川原民直氏であったという。


 紀伊国に紀氏が奉斎していた「日前・国懸神社」があるが、この「日前」とは「ひのくま」と読む。


 だから、「檜前」の地名や「檜前」の氏族名となった「檜前」とは、「日前」のことであり、檜前民使氏や檜前調使氏、川原民直氏は、紀伊国から紀ノ川を遡上して、紀路から巨勢路を経て、「檜前」に定住した渡来人であったと考えられる。


 その後、「檜前」の移住してきた渡来人たちは、先住の渡来人たちとまじりあって、6世紀後半には「東漢直」氏を形成した。 


 宣化天皇は、諱や宮号に「檜前」を含むが、それは、「檜前」が、飛鳥よりも早く開発されていたので、その「檜前」に、即位前からの皇子宮から引き続いて、宣化天皇の宮が設置されたためであると考えられる。


 その後、6世紀以降から6世紀半ばにかけて、飛鳥に多くの百済系渡来人が、周辺の開発のために移住してきた。


 彼らを移住させ、組織したのが、蘇我氏であった。


 そして、蘇我氏が組織したのが百済からの渡来人であったことから考えると、石川→曽我→飛鳥というルートが、蘇我氏が移住していったルートであったと考えられる。


 だから、倉本論文の主張には従えない。