(尾張藩の御狩場)
尾張の藩主が徳川御三家の一つに決まると、この地方の農村は静けさを取り戻していったようです。
きっとのどかな田舎だったのでしょう。
江戸時代の記録をみますと、天白の地は、徳川氏の御狩場として付近の動物はとってはならない
とされ、天白渓のあたりは沼地で猪や鹿、うさぎやたぬきのすみかになっていたようです。
尾張名所図会にも音聞山のあたりに、鹿の姿がえがかれているところからも、
当時の面影をしのぶことができます。
(江戸時代の八事村)
徳川家康は天下をとると、軍事的な目的で岡崎から名古屋への街道を整備しました。
平針には宿場を設けましたので、この街道は平針街道とも、岡崎街道ともよばれていました。
その後、長野県の飯田との交通が重要になってきたので、飯田街道と言われてきました。
文献によると、家は77軒、人数341人、馬7頭と記されています。

