先日、こんな記事を見ました。
子どもたちに「愛ってなんだと思う?」聞いてみたら・・・純粋な答えに胸が打たれる - TABI LABO
「愛」ってなんだろう?
この問いは、「生きるとは何か」と同じくらいのレベルで難しい問いだと思いますが、こーいう大人でも答えるのが難しい問いに、時に子どもの方が鋭く、深い答えを出すことって結構ありますよね。
大人は、知識や経験が多い分、どうしてもあれこれ小難しく考えてしまうことが多い。
でも子どもはそうじゃないから、とてもシンプルに物事の本質を捉え、言葉にしてくれる。
そんな子どもの姿からは、大人としても学べることだらけです。
先ほど紹介した記事の中にある子どもたちの答えの中で、僕はこの5つが特に好きです。
「ママが、“グリルチキン”の一番美味しいところをパパに取り分けてあげてたのね。それって、愛があるからでしょ?」
子どもはホントによく見てますね。素朴な日常のワンシーンから、「愛」を捉える。素晴らしい感性です。
「ママが、自分が飲むんじゃないコーヒーをパパのために淹れるとき、美味しくできたかどうか、いつもひと口味見してからパパにあげているんだ」
ママがパパを喜ばたくてすること。パパがママを喜ばせたくてすること。子どもはそんなシーンを見て、愛を学んでいくのかもしれない。
「おばあちゃんが関節痛になっちゃったのね。背中を丸めて足の爪にネイルするだけで痛いんだって。そしたら、おじいちゃんが代わりにネイルしてあげてるんだよ。自分だって関節が痛いはずなのに。これが愛だって思った」
このシーンを想像するだけで、心がほっこりしますね。僕もおじいちゃんおばあちゃんになっても、こんな夫婦でいたい。
「ボクのことが好きな人はね、みんな呼び方が違って聞こえるんだよね。だからすぐ分かるよ」
この美しいまでの感性。多くの大人はおそらく失ってしまったであろうものだと思います。
「愛って、つまりクリスマスの朝、自分の部屋にあるもの。真っ先にプレゼントを開けるんじゃなくて、まずは想像するってことなんじゃない?」
「愛」とは、まず「想像する」こと。なんとも深い言葉です。
特に最後の子の言葉は、本当に心にグサッと刺さります。
価値観。思考。感情。立場。
他者とコミュニケーションを行う上で、相手のあらゆることを「想像する」のは、本来不可欠の要素です。
・・・が、多くの大人は、大抵それが苦手です。
たぶん子どもの頃は自然とできていたはずですが、大人になるにつれて、そういった想像力や感性が、どんどん鈍ってしまう。
結果、独り善がりの「コミュニケーションもどき」になってしまって、人間関係もうまくいかない。
よくあることですよね。
子どもたちのように、相手を想像し、観えたまま、感じたままをシンプルに言葉にし、思いやりをもってちゃんと相手に伝えることができたら、きっとあらゆる人間関係はうまくいく気がします。
キーになるのは、
どれだけ相手のことを深く、丁寧に想像できるか?
これはたぶん「癖」みたいなものだと思うので、「日頃からどれだけ意識しているか」にかかってくるでしょう。
コミュニケーションをとる相手のことを何ら想像もせず、ただ自分の言いたいことだけを言って悦に浸るのか。
相手のことを真剣にできる限り想像した上で、相手が欲しい言葉、欲しい行動を、できるだけ先回りして与えるのか。
どちらになるかは、日頃の何気ない積み重ね次第。
そういえば昔、
「愛」とは「愛する」でも「愛される」でもなく、ただ「愛である」ということだ
みたいな話をどこかでした気がしますが、「想像する」という営みは、まさにその話にも直結します。
特に、心の病の人と身近で接するときなどは、その人にとって「愛である」ことがとても重要になってくる。
そのために最も必要なことの一つが「想像力」だということ。
僕自身、近頃は(良くも悪くも)慣れてきたこともあって、妻のことを「想像する」ということが、だいぶ疎かになってたなーと、今となっては思います。
今は幸い、妻の状態は落ち着いています。
が、僕がこのままどんどん想像力に欠けていけば、必然的にコミュニケーションも雑になって、結果、また妻の症状がマイナスに振れてもおかしくないわけで。。。
なので、あらためて僕も自分自身の振る舞いを省みて、しっかりと相手のことを「想像する」習慣をつけて、素朴な行動を積み重ねていきたいと思います。
幼い子どもが純粋に、親を喜ばせたくて、親のことを想像して、一生懸命自分にできることをして、想いをシンプルな言葉にして、伝えるように。