若松城 その4 | 南部の国から

南部の国から

歴史好きの歯医者さんが、日常で感じたことをダラダラと綴っております。
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鶴ヶ城のレポに入れぬままもう4回目…。


あきれずもう少しお付き合い願います(笑)




1643年、当時山形藩20万石の藩主であった保科正之は3万石加増の23万石で会津に入りました。


それから徳川親藩松平家の会津支配は9代225年にわたり続きます。


初代 正之

2代  正経 

3代  正容(この時に松平氏に改姓)

4代  容貞

5代  容頌

6代  容住

7代  容衆

8代  容敬

9代  容保


この中で有名なのが初代の正之、そして9代容保でしょう。


この間の藩主の時代にもいろいろな出来事がありました。


日新館の事やもろもろ…


でも、これらを書いていくと、とても時間が足りません。


これらの話はまた別の機会を設けて、じっくりと書いていこうかと思います。



というわけで、時代は一気に幕末、9代容保の時代に移ります。



1852年、容保は8代容敬の死をうけて会津藩主となります。


1862年、容保は「京都守護職」を拝命、その年の末に京へ到着しました。


この時に京都守護職預となった部隊が「新撰組」であります。


歴史に詳しくなくても、この名前を聞いた事がない人はあまりいないのでは、というくらい有名ですね。


近藤勇、土方歳三、沖田総司などの名前が特に有名ですね。



話が脱線しましたので戻します。


翌63年の八月十八日の政変、蛤御門の戦いなど幕府そして朝廷のために動きます。


しかし14代家茂の死、15代将軍慶喜の着任、信頼厚い孝明天皇の死、大政奉還とめまぐるしく政情が変わる中、薩摩そして長州の権謀策術のなかで次第に朝敵へと追いやられていくのであります。


おおよそこのような権謀策術とは無縁であった会津藩にとって、器用に時代を渡る力は持ち合わせていなかったのであります。



そしてここから会津藩の悲劇が始まります。


1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い。


約1年にもおよぶ戊辰戦争の始まりです。


兵数に勝るものの、兵器の能力で劣る旧幕府軍は薩長中心の新政府軍に敗北。


さらに1月5日、新政府軍の陣に「錦の御旗」が上がり、会津藩を含めた旧幕府軍は名実ともに朝敵となってしまったのであります。


もっとも、私の私見ですが、ここで旧幕府軍は大坂に退却してしまいますが、もしもう1度兵力を頼みに押し出していたらどうなったか?


おそらく旧幕府軍は勝てたのではないか、と思います。


理由は旧幕府軍大坂退却後の新政府軍の動きです。


ほとんど追撃らしい追撃はしていないんですよね。


もしかしたら寡兵の新政府軍、武器弾薬が底をついていたんでは?と思うからです。


そうすると、歴史は大きく違ったものになっていたかもしれませんね。



おっと、また脱線してしまいました。


大坂退却後、徳川慶喜は松平容保と桑名藩主松平定敬を連れて、軍艦「開陽」で密かに江戸へ帰ります。


置き去りにされてしまった旧幕府軍の兵士達は大坂城に火を放って陸路または海路を使いおのおの江戸へ戻ります。


鳥羽伏見の戦いでの会津藩は大砲隊長林権助以下130名もの死者を出した、文字通りの完全敗北となってしまったのであります。



江戸に戻った慶喜は容保・定敬を出城差し止めとしました。


同年2月10日、容保は失意のうちに会津へ帰ります。


会津に戻った容保は、新政府軍に対して恭順を嘆願するも、新政府軍はこれを拒否。


同年5月、奥羽越列藩同盟を結成。


会津もまた槍・刀中心の軍制から鉄砲中心の軍制を敷くようになりました。



3月以降、新政府軍と旧幕府軍は各地で戦闘を繰り返します。


新政府軍は旧幕府軍の首魁を会津と定め、いよいよ会津征討の軍を発進させます。


当初、薩長軍参謀大村益次郎の作戦は枝葉である諸藩を攻略し、然る後最強会津藩を叩くという「枝葉を刈って根元を枯らす」作戦でありましたが、冬の早い会津を目の前にして、作戦を変更、先に会津を叩き、然る後諸藩を落とすという作戦にスイッチしました。


閏5月1日東北の入り口である白河を占拠、同盟軍も白河を奪回せんと2ヶ月にわたり攻撃を仕掛けるも、ついに白河を取り戻す事ができませんでした。


さらに新潟口の長岡藩を激戦の末7月29日に完全に陥落させました。


二本松城も7月29日に落城。


新政府軍に母成峠を破られたのが翌8月21日。


さらに8月22日、新政府軍が十六橋を突破、23日には滝沢峠も破られ、会津藩は籠城の準備も整っていない鶴ヶ城での籠城戦を始めます。


新政府軍は8月25日になると援軍が到着し、各地に散っていた会津藩兵もようやく鶴ヶ城へと戻ってきました。


ここでの白虎隊そして娘子隊の悲劇は有名なお話ですね。


籠城者は兵士約3200、婦女子639名、老幼者284名、傷病者530名、その他合わせて5238名と相当の人数でありました。


籠城は約1ヶ月に及びます。


これ一行でこの籠城戦を語るのは不遜であるといえますので、また後日機会を設けて、これらのお話は書きたいと思います。


その間、新政府軍は南門をを開け、終日鶴ヶ城に大砲を打ち込み続けます。


結果、鶴ヶ城天守は見るも無残な姿へと変わり果ててしまいました。


9月に入り越後口総督仁和寺宮が会津へ錦旗とともに到着。


ここに至って、藩主松平容保は降伏を決意します。


9月22日会津藩は降伏、新政府軍軍監中村半次郎に降伏謝罪書を提出し、降伏となりました。


「泣血氈」の話、有名ですよね?



さて、その後の鶴ヶ城ですが、翌年から兵部省の管轄下となります。


1874年、鶴ヶ城は石垣を除き破却。


1890年、城地29haは松平へ払い下げ。


1908年、陸軍の訓練所建設のため、三の丸およびその周囲の堀が完全に失われます。


1917年、「若松公園設計計画」が立ち上がります。


1927年、若松城敷地内の権利が松平家から若松市へ。


1930年、国の史跡へ指定。


1965年、天守復興。


1990年、茶室麟閤移築復元。


2001年、干飯櫓復元。


そして現在、瓦の復元工事中。


さらに後日、御三階櫓の復元も計画中。




さて、ざっと会津、そして鶴ヶ城の歴史について触れてきました。


これで「ざっと」です。。。


会津の歴史を書き始めたら何回かかるか分かりませんが、いずれ今回触れなかった部分にも機会をみて書いていこうかと思います。


さて、次回からやっと城内レポが始まります。