1941年11月26日を忘れない。

アメリカ・イギリス・支那・オランダによる対日経済封鎖により石油・ゴム・といった資源のほとんどを供給停止されていた当時の日本。

生き残るために南方進出し、アジア諸国を欧米の植民地支配から解放するしかない状況にあった。

そんな状況下での日本は日米開戦を回避すべく、ぎりぎりの条件を提示して日米交渉の妥結を探っていた。

その条件である「甲案」を用意した。
1.日支(日本と支那)に和平が成立した暁には支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。
2.支那事変が解決した暁には「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。
3.通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら太平洋全域とシナに対してもこれを認める。
4.日独伊三国同盟への干渉は認めない

また交渉決裂に備えて、次なる「乙案」も用意していた。
1.欄印(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する。
2.更に支那事変が解決した暁には仏印全土かた撤兵する。

要するに日本に対する経済封鎖が解除され石油などの資源が供給されれば南方進出しないというもの。

ところがアメリカは11月7日に「甲案」を、11月20日に「乙案」をも拒絶した。

そして当時のアメリカ国務長官コーデル・ハルは11月26日に、日本政府に対して到底受け入れる事の出来ない通告をしてきた。

屈辱的な文章・ハルノート。
1.日本軍の支那・仏印からの無条件撤退。
2.支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府・政権の否定。
  (日本が支援する南京国民政府の否定)
3.日独伊三国同盟の一方的な解消。

日本が保有する資源・物資などの大陸での正当な権益及び、アメリカにある日本の全ての資産を放棄しろという一方的で無茶苦茶な主張。

宗主国が植民地に通達するような内容であるばかりでなく、経済制裁の解除には一切触れていない。

結果として日本が選択させられた「開戦」は自衛手段以外の何物でもない。


以下がハルノートの内容。

第一項「共同宣言の方針案」
 1.一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
 2.他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
 3.通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
 4.紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則

第二項
 1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
 2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
 3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵[注釈 10]
 4.日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
 5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
 6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
 7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
 8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
 9.日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない。(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
10.本協定内容の両国による推進