テクストカラーの犯罪
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平等性パラドクス~富国強学論考~

 国民の全てに平等に高水準な教育を受けさせよう、というものが戦後日本教育の方針で、まさにこれは富国強兵ならぬ『富国強学』とも言える政策であった。その結果、私達は算数に興味がなくても掛け算が出来るし、記憶力の良い大人であれば未だに因数分解だって出来る。しかし、その方針には限界があった。平等性の構築による不平等の登場である。


 平等性というものは、それ自体を目的としたときその機能を破綻させる。結果としての平等は成立するが、目的としての平等は成立しない。


「平等ったって、生まれも育ちも平等じゃないんだから、平等に教育されたら差が広がるばかりじゃないか」


結局こうなるのである。
出来る子も出来ない子も能力に見合った教育を受けられない。


 勉強の出来ない子に勉強をさせる必要はない。職人なりなんなりを目指せばよいし、学問畑に行きたければ努力すれば良い。(ここで線引きしておきたいのは、出来ないこととやらないことは別であるということ。)出来る子にしても、この日本にいる限りは、一部教育特区での飛び級等で1年あまりは早足になれるものの、どんな天才であっても大学卒業の22歳までは強制のカリキュラムとなる。人生は短い。何故、出来る人間が22歳まで浮世の水準に合わせて時間を浪費しなければならなのか、何故、器用で職人向きの人間が中学・高校までは最低でも付き合わなければいけないことになっているのか。最初からフラット(平等)な関係でないものに平等な条件を与えたところで、そこは既に平等な関係ではないはずなのに。平均化は必ずしも平等化にはならないことは明白であるのに。そこには恐らく、学問というレースに『強制的に』参加させられているという明確な認識が出来ていない層と、後述の「ギャンブルよりも放棄を選択する層」が厚いことが関係している。


 前者は認識不足から生まれている平等性への憧憬、簡単に言えばカタチだけでも横並びであれば安心だということだが、しかしよくよく考えてみると、その横並び政策はそういう人たちを守っているどころか、萎縮させ、平等が平等でない状況を作っているのである。
 
学問のレースで強い者・職人のレースで強い者がいる。しかし現時点では、『平等な教育』の名の下に、職人が学問のレースに強制的に参加させられているのである。同じ教育を受けていながら何故か感じる不平等な感覚、それは成績の格差だけでなく、そういった人間性能の本質から湧き出てくる『精神的不平等』があるからなのだ。強制的に参加されられるレースの成績で論われることの苛立ちは想像に難くない。


 後者は、その偽りの平等でも「ある程度の点数を取れればいい、人生自分の道を見つけようとギャンブルする気はない」という考え方で甘んじて受けて容れる層である。偽りの平等性による不平等性を認識しながらもギャンブルより放棄を選択する層だ(世の中の不平等を叫んでいるのは実はこの層が最も多いのではないかと密かに思っているのであるが)。


偽りの平等性から生まれる不平等を認識出来ずに、不満はあるけれどもなんとなく横並びを受け容れて生活している者と、ギャンブル(というより人生という自らが主人公の航海日誌をつけること)より放棄を選び、偽りの平等に溺れる認識者。
これが現代教育政策の生んだ層である。


 結果としての平等を私は勧める。元々別のレースに参加しているのであれば、各々の結果を比較もしないし、各個人個人の「ふんぎり」がつくのである。システム的には不平等かも知れないが、精神的には平等なのである。具体的には、出来る子は飛び級をさせ、基本教育はどんなに早く終わらせても良しとする。教育の水準を下げ、出来ない子に負担にならない教育をする。基本教育は大学までいっても最高22歳までとする。こうすれば自動的に平等な層が出来るだろう。恐らくは22歳で大学を卒業する人間はいなくなる。出来る子は早々とカリキュラムを達成するからである。出来ない子も早々と学問畑から身を引き職人なりスポーツなり早い段階からエキスパートを目指すことが可能となる。人生の時間節約にもなり得るし、強制的に参加させられたレースで頑張ることを賞賛し、自らの適性を吟味して時を生きる人間がバカにされる変な世の中ではなくなる。絵空事、夢ではあるが・・・。しかしこれが現状であり、偽りの平等性が生んだ現代のパラドクスなのだ

センセイと呼ばれるアダルトチルドレン

全国模試で満点がとれない数学教師
ロクな論文の一つもかけない国語教師
そして、現代社会に一歩も踏み出したことのない社会教師----


知識すら満点でない人間、生徒から「センセイ」に呼び名が代わっただけで学校という機関から一歩も出ずにいる人間。そんな人間が社会を語る。失笑である。
彼らは二十歳を過ぎてほどなく「センセイ」と呼ばれる。そこからおごりが生まれ、傲慢になる。


そもそも「社会」とはなにか。
それは一つのコミュニティを指すのであって、全体を指す言葉ではない。
ひきこもりならば家庭内が社会であり、教師なら学校内が社会であり、サラリーマンなら自社が社会である。世界の全体をひっくるめて社会ということはありえないのだ。そうすると「社会に出ないとわからない」というお決まりの文句も嘘だということがわかる。彼らの言う社会、それは彼らの生きてきた世界にのみ通用する「社会常識」であって、学校教育社会の常識と、サラリーマンの社会常識とは一致しない。


社会のセンセイという呼び方は気持ちが悪い。もしそう呼ぶなら、教育のしくみ、学校のしくみ、教師としてどう生きるか、そういった教育の現場社会について教えるべきである。世の中で起きたことを知識として教える。それは社会教育ではなく、ただの歴史である。社会教師は歴史教師と総称すべきなのだ。


あらゆる社会構造を研究もせず、社会でおこった「歴史」を知っているだけで「センセイ」。成熟していない知識を自分のものとして喋るアダルト・チルドレン。それが学校という箱から一歩も出たことのない教師たちの「社会」なのだ。




某月某日 烏丸

人間はロボットである

 感情というものを理論的でないものといったふうに使うことが多い。殆どそうだ。『議論をするにはガイドラインが必要であった』の中でも私はそう述べた。だが、そろそろここから一歩進んで考えなければならない。
 感情は単に自然的で個体的な現象ではないと考えたらどうだろう。論理性・合理性を追い続けてきた今までの発想とは逆のものである。私達が感情を経験するにあたって見出される同型性・規則性は『感情規則(FEELING RULES)』として把握し、その規則によって感情の種類や強度・持続性が支持されると考える。また感情の種類や程度、表出の仕方を変更する『感情管理(EMOTION MANAGEMENT)』は欠如した望ましい感情を喚起したり、逆に経験している感情を抑圧・消去させる営みであり、場にふさわしい感情表現が求められると社会学では言われている。要するに、感情には規則的な条件と状態があるというのである。そしてその条件を状況を与えてやることで、経験したことのない感情も喚起することが出来るというのだ。言われてみれば、その感情規則というのも分かりやすい例で言えばそうかも知れない。「人を殺してはいけない」という自明の感情がそうだ。『普通に』人を殺すことは禁忌であると思っている人のみならず、人殺しでも「人殺しは悪いことである。だから殺す。」「人を殺すことは悪い。だが、このままだともっと精神的に悪い。」から殺している。快楽殺人にしてもそうだ。殺人というものに意味的なものを感じているからやる。「人殺しをすれば誉められると思ってやりました。」という奴は少ない。利害関係を除いては。つまり、同種を殺すことが悪いという感情は感情規則、ルール、プログラムとして成立している。この極論から出発していき、ある条件で規則的に発生する人の感情を分類していくと、それは確かに個体的な現象とは異なってくる。個体の特異性をカテゴライズさせることが出来る場合、もはやその特異性は、特異ではなくなる、自然的・個体的ではなくなる。
 もし感情的と思われていたものが、実は規則性を持ち、ある条件さえ与えてあげれば顕せることが出来るものだとしたら、私達はアイデンティティを失うのだろうか。なんだか「人間も所詮、自然が創り上げたロボット」と言われているような感じがしてくる。パーツが同じなのに性格の違う双子を見て安心する私達は楽観的ではないか。感情までもプログラムとして分類されてしまった時代では、この『感情』『個性』を決定づけているものは何か。感情とは何か。最早それは細胞学的ものであったり、神経の発達度合いやら、生物学的な老化具合、気候、気温、時差、場所、そういった微小な条件設定であり、その組み合わせがあたかも無限に複雑に見えるので、あたかも個別的な感情として認知されているのであると言われているかもしれない。
 しかし、認知・認識の話からいけば、例えば、私達が光を見るとき、「これは『光子』という光の粒の塊だ」という認識は科学者でない限りは必要ない。つまり、認識できないものは、その現象の真実や事実がどうあれ許容されない。酸素が発見される前の時代までは世の中に酸素がなかった(人間が認識する世界では)のと同じ。何がいいたいのかというと「結局、理論上、感情に規則性があったって認識できないほど多様であれば、人間界では『個性』として扱う理由に足る」ということだ。
 感情すら体系化され、ゲノムでは細胞学的に人間のプログラムが暴かれ、最早脳の謎も時間の問題だ。

 

―――人間はロボットである。


 私達の脳が作り出したロボットが、私達の脳の命令で私達を分析する。私達の脳が私達をあらゆる学問で分析する。その結果、プログラムの多様性による『錯覚的個性』を持つと決定づけられる。、しかし、それを暴かれたとて、依然、私達がいまだに鏡や映像以外で自分の肉眼で自分の姿を見たことがないように、「どうもそうらしい」としか認識できない。認識の壁によって私達はヒトではなく人としてとどまっていられるとは、なんとも皮肉な話だ。


某月某日 烏丸

私の中にいる『フツウノヒト』

普通の人は-


 よく使われる言葉である。特に個人主義(インディビジュアリズム)が流行っている現代ではそれが顕著だ。私自身、このフツウノヒト、一般には、典型的な、といった類の言葉は使用するが、マジマジとこの言葉を眺めていくうちに奇妙な感覚にとらわれ始めた。


「フツウノヒトとは一体誰のことなのか。フツウノヒトは本当に『普通』なのだろうか。」

 

 私の中に「これは普通である」という感覚的または社会常識的定義、所謂コモンセンス(共通意識)に則ったもう一人の『普通人』という奴がいる。そしてこの『普通』というものは批判的に、もしくは比較的に使用される。ここで疑問が生まれる。


「この世にフツウノヒトなど存在するのだろうか」

 

 コモンセンスを体現したような人間が、この世にいるとでも?というわけである。そしてその答えはノーだ。しかし、居もしない人間を取り上げて比較しようとしているのである。ここに違和感を感じているのだ。

 どんな人間もある点では他人と差異はないが、ある点では異なっている。少なくとも内面的にはそうであると言えるだろう。外面的には、一卵性双生児ですら差異がある。服装が異なればそれも個別のものとして扱われる。つまり、もともと共通性を体現する人間など始めからいないのだ。自分の中に「これが普通であろう」という空想の人間が一人でいるだけであってそれは他人にとっては普通ではないということだ。生物学的に同じという点で、多少発想が似通っており、所々、点と点が偶々一致する部分があるので「普通は」という会話が人間同士にのみ成り立つことがあるだけなのだ。


 始めから存在しない人間の例を挙げて「フツウノヒトはね」と切り出すことの不可思議をもっと感じて欲しい。全てにおいて普通の行動をする人間を想像しているわけではないと思うが、「あれはどの人間でもよくやる行為である」の意味でフツウノヒトを登場させること、それを突き詰めていくとフツウノヒトは消え去ってしまう、その感覚が興味深い。
 
 誰の中にもフツウノヒトは住んでいる。地球60億人ではなく、総勢120億人ということだ。自分の中で自己と空想を比較しているのだ。


「あの人の持っている『フツウノヒト』も私の中にいる『フツウノヒト』と同じ行動をするらしい」


ということを会話の中で感じとれる場面がある。承認が得られる、その一点があるために「普通は」という話し方がそれほど抵抗にならないだけなのだ。相手とのやりとりで自分の中のそれが『普通』であると承認されなければ、その『フツウノヒト人格』はただの空想で創られた一人格でしかないことはハッキリするだろう。

 フツウノヒトを会話に登場させる時は気をつけたほうが良い。フツウノヒトは貴方の人格そのものを苗床とした虚像であり、本質を投影した実像でもあるのだから。


某月某日 烏丸

教育一家の息子がヒッキーで殺人を犯した場合

 教育一家の息子がヒッキーで殺人を犯した事件について、評論家Aは---

「僕にはね、この事件はすごく分かりやすかったと思うんです。引きこもりということではなくて、親が教育者で、家族内が《教育家族》だった。《教育家族》という言葉は別に僕が作ったわけではないのですが--」

 A先生曰く、その教育家族内にある不文律、つまりは「世間体、教師一家における規範的な知性が求められる雰囲気」が容疑者を引きこもりにし、結果としてこのような事態になった、と。 もう一人の先生は「言葉が足りない。親と子供の会話の言葉が壊れちゃってる」などと言っていた。

 ニュースでは「県は事件後、県内の引きこもり実態の調査を開始し、引きこもり対策をNPO等にも協力を要請して・・・」
 県の発想と比較すると、引きこもり議論にしなかった評論家先生はマシであったが、《教育家族》などと言葉遊びに終始するだけではなく、もっと根っこの方を見て欲しかった。現時点でさえ、この事件が引きこもり現象とかニートとかお受験的《教育家族》そのものではないということぐらい分かるのだ。
 その親(教師)の職場という『社会』において(働いていれば「社会人」だと思っている人はこの先は読まないほうが良い)、学歴、教育、世間体とはどういうものであったか知らなくてはならないし、そこまでの調査を個々に出来ないのであれば、統計的に、もしくはサンプリングするなりして世相を分析しなければならない。    

 若者は既に「今は学歴社会ではない」という。だが「やりたくてもやらせてもらえない」人間がたくさんいる。「使ってくれんなら俺スゲー頑張る」という人間は多い。学歴社会批判をすれば受けがいいと思っているのか、まことしやかに学歴社会崩壊説が囁かれるが、これらを見れば結局そんなのは一部だけで、安定を求めようとする大勢(たいせい)の視点ではまだまだ学歴は重要視されている。進路指導もする機会のある教育者一家、その家内の不文律もそれに従う。教育者は生徒の頭の良し悪しと就職先の相関関係をリアルに知っているが故、一般的なものより色濃くそれらが現れた。と原点まで戻ってから、ここまでたどり着くべきである。教育家族だったからではなく、その教育家族内の不文律が作られた理由(学校や地域によっては学歴に対する比重が大きく異なる点など)から考えて欲しい。そして、「教育」「引きこもり」というキーワードからは絶対に出てこない殺人への理由までも頭に入れて論じるべきだ。何故なら私には、殺人とは、シンボリックな『それらしい理由』とはてっぺんのみで、その土台・根幹には、積もりに積もったどうでも良い不満・ストレスが蓄積されているように思われるからだ。


某月某日 烏丸