誤報:沖縄の縄文人はみんな皇室の子孫 | デフレ派のブログ

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デフレ容認、円高容認の視点で経済などを論じたいと思います。経済学部出身です。

引用します。


鎮西八郎源為朝の子孫かどうかはわからないが、沖縄や奄美大島のD1bは、
殆どがD1b1a2bの派生型で、それに比べて本州の日本人はD1b2など種々の
多様性がある。
沖縄のD系統は皇統か、皇室の先祖から分岐した系統である可能性が高い。

以上。


つまり、沖縄に140万人いますが、そのうち40%くらいが縄文系で、その人たちはみんなたった一人の源氏、源為朝という皇室の子孫から繁殖したという可能性が高いということです。


沖縄には平氏伝説が多いという説がこれの反証材料になります。


源為朝の子供が琉球王に即位し、琉球王朝ができたと伝説にあり、沖縄にある神社は熊野大権現を祭っています。つまり、沖縄の神社は皇室の神社です。で、そんなの嘘っぱちだろうと笑い飛ばしていましたが、遺伝子解析によって、沖縄の縄文人60万人がみんな天皇家の子孫であるという結果がでました。


これは、縄文人の南方からの伝来説を否定する考古学的根拠になるものですが、


天皇家の子孫は沖縄だけで60万人いるんですねえ。すごいなあ。

たった一人の源氏から60万人に繁殖した可能性は否定できず、面白い結果が出たということになります。

沖縄最古の文書は平仮名で書かれており、薩摩藩の琉球征服以前に、平安時代に日本と沖縄の交流があったとする説が強くなっています。


本土やアイヌではここまで遺伝子が一致することはありません。


沖縄の芸能人って多いなあと思ってましたが、縄文系であることが秘かにわかっていたのかもしれません。



追記。


さすがに源為朝はないか。伊豆大島から沖縄には行かないよなあ。
でも、沖縄のハプロタイプは皇室の変化形がほとんどなんだよ。

ウィキから。

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。
源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。
弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称す。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するが敗れ、
伊豆大島へ流される。しかしそこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したので、
追討を受け自害した。切腹の、史上最初の例といわれる。[要出典]
一方、琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、
このとき追討を逃れて現在の沖縄県に渡り、その子が琉球王家の始祖舜天になったといわれる、伝説的な人物でもある。


追追記。


ぼくのミトコンドリア遺伝子のハプログループが「D」だと以前、書きましたが、研究が進み、ミトコンドリア遺伝子「D4b」が縄文人骨から発掘されました。なので、弥生系といわれていましたが、縄文系の可能性も出てきました。


追追追記。


縄文系と弥生系の区別として語られる形質については、面長面広、体毛が濃い薄い、色白色黒、血液型がA型B型、酒に強い弱い、いろいろと語られてますが、そのほとんどをぼくは信用していません。


ぼくが現在、信用できると思っている形質は、天然パーマとたらこくちびる(一時期流行ったアヒル顔です)は縄文系だということだけです。他の形質についてはぼくはまったく信用しません。



追追追追記。


800年間でたった一人の琉球王の子孫が50万人にも増えた。

これが沖縄の史実である。

琉球大学の遺伝学研究所も認めるところである。


島国という特殊な日本、その中でもさらに島国な特殊な沖縄を題材にとって、
神話、言語、遺伝子、文化風俗産業、幸福度などを調べてみるのも面白い研究かもしれない。


追追追追追記。


・Y染色体:総塩基対数=約5100万。推定遺伝子数=78個。

・X染色体:総塩基対数=約1億6300万。推定遺伝子数=1,098個。

ミトコンドリアDNAは、だいたい16600bp(塩基対数?)で、遺伝子総数37。



追追追追追追記。


現在、出土している縄文人骨は全部で170体ほどらしい。
そのうち、91体が2014年1月に富山県の小竹貝塚など遺跡で工事中に発掘されたものだ。

縄文人骨から採取されたDNAはすべて縄文系のものであり、渡来系のものは検出されなかったようだ。



追追追追追追追記。


沖縄の縄文人にも皇室以外の系統はいるようです。