仏教の極楽浄土とはどんなところか | デフレ派のブログ

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デフレ容認、円高容認の視点で経済などを論じたいと思います。経済学部出身です。

中村元訳の「浄土三部経」(全2巻)を読みました。

中身は、「無量寿経」と「観無量寿経」と「阿弥陀経」です。

「無量寿経」が一世紀頃にインドで成立したと思われ、

これをナーガルジュナが支持したため、大乗仏教では「無量寿経」の阿弥陀如来が信仰を集めています。


日本では、浄土宗、浄土真宗、などで中心的に教えられるお経で、

お寺で配ってる本の第一にのってるお経ですが、難しいので、みんな読んでません。

仏教のお寺に何度も出かけるわたしの六十代の母も読んでませんでした。

内容を知らないようです。


ただし、日本の女性たちには、その中の

「極楽浄土に生まれた女は、男に生まれ変わりたければ、自由に男に生まれることができる」

という教えを知っているものは多く、「わたし、男に生まれたかったもん」という日本女性の発想の根拠は、

おそらく、「無量寿経」にあります。


で、日本で仏教を語るなら、極楽浄土がどんなところか知らなければ話になりませんから、

極楽浄土がどんなところか説明します。


「無量寿経」は釈尊が語ったという体裁をとっていますが、確実に釈尊の教えではありません。

釈尊は、涅槃に至るのが良いと教えており、それは無量寿経でも採用されていますが、

「無量寿経」の大きな特徴は、自力救済ではなく、阿弥陀如来に救ってもらうという他力救済にあります。


他力本願というと、自主性を重んじる現代では、古い教えのように思えますが、

阿弥陀如来の与えてくれる慈悲は、それは、そこまでしてくれるなら、阿弥陀如来に救われてもいいよ、

と想えるくらい素晴らしいものです。

なんというか、簡単にいえば、普通の想像力で考え出すより、幸せになれます。

極楽浄土に生まれ変わる、つまり、阿弥陀如来に救われるということは、金銀財宝を手に入れるより、

比べものにならないくらい幸せになれます。


「無量寿経」および「阿弥陀経」では、阿弥陀如来がすでに悟っているという立場をとっています。

つまり、すでに、この世のどこかに極楽浄土は存在するというものです。


で、「無量寿経」には、阿弥陀如来になる前の修行僧、法蔵菩薩が主人公です。

法蔵菩薩は、自分が悟ったことになる条件を五十個宣言します。

これは、釈尊の涅槃より、条件の厳しいものです。

現実に、阿弥陀如来が過去に悟っていることは、簡単に否定できますが、

その人が幸せになるための条件というものが、素晴らしい発想で描かれており、

おそらく、これから読む阿弥陀如来の仏国土である極楽浄土は、あなたが想像しているよりも幸せです。


阿弥陀如来の四十八願として漢訳されていたものを、パーリー語から直訳した中村元訳で、

それをわたしが要約しました。

極楽浄土とは、以下に書いた五十願が実現した世界です。


では、

阿弥陀如来の五十願


もし、自分の仏国土に地獄界、畜生界、餓鬼界、阿修羅がいたら、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土の者が来世、地獄界、畜生界、餓鬼界、阿修羅となるなら、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土の者がすべて金色でなければ、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土で神々と人を区別するようなことがあれば、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土に美醜の区別があれば、悟ったことにならない。

もし、自分の仏国土に神足通を持たないものがいたら、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土にあらゆる前世の記憶である宿命を知らない者があれば、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土に天眼通を持たないものがいたら、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土に天耳通を持たないものがいたら、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土に読心術を持たないものがいたら、悟ったことにならない。


もし、自分の仏国土に執着をもつものがいれば、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土の者がみないずれ涅槃に至るのでなければ、悟ったことにならない。
もし、わたしの光の量が無限でないなら、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土の者が寿命を減らされることがあるなら、悟ったことにならない。
第十五願。解読不能。

もし、自分の仏国土に悪名があれば、悟ったことにはならない。
もし、わたしが仏となった時、まわりの諸仏がすべて我を称えないのであれば、悟ったことにならない。
もし、他の世界にいる者がわたしの名を唱えただけで、わたしが死ぬ時に彼らの前に行けないのであれば、悟ったことにならない。

第十九願。解読不能。
もし、自分の仏国土に生まれた者が三十二の特徴を備えないのならば、悟ったことにならない。

もし、自分の仏国土の者で、涅槃に至るにわざと余分な命を得るものがいたら、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土の者が、すべての諸仏に供物を与えることができなければ、悟ったことにならない。

もし、自分の仏国土の者が望んだ時に、黄金、銀、宝石、真珠、瑠璃、螺貝、石、珊瑚、水晶、琥珀、赤真珠、瑪瑙、
さらに、あらゆる宝でも、あらゆる花や、薫香、花かずら、塗香、抹香、
さらに、衣服、傘、幟(のぼり)、幡(はた)、燈明、
さらに、あらゆる踊り、歌、音楽、が手に入らないのであれば、悟ったことにならない。

もし、自分の仏国土の者が全知の法話をしないのであれば、悟ったことにならない。
第二十五願。解読不能。

もし、自分の仏国土の者がみな、ナーラヤナ神が金剛で打つような強固な体をもたないのならば、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土の者が、自分たちの美しさを説明できるようなら、悟ったことにならない。

もし、自分の仏国土の者で、1600ヨージャナある菩提樹に至る善根がなければ、悟ったことにならない。

もし、自分の仏国土の者がみな、とどこおりない表現力をもつのでなければ、悟ったことにはならない。
第三十願は、第二十九願と同じ。


もし、自分の仏国土が鏡のように清くなければ、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土に、充分な香料がなければ、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土に、常に宝石と花の雨が降り、音楽が絶え間なくならなければ、悟ったことにならない。
第三十四願、解読不能。
もし、他の世界の者がわたしの名を聞いて、いずれ悟りに至らないなら、悟ったことにならない。

もし、わたしが仏になってから、女が男に生まれ変わりたがって、生まれ変われなければ、悟ったことにならない。
もし、すべての世界のすべての者が、わたしの名前を聞いても、悟りに至る行為に及ばなければ、悟ったことにならない。
もし、他の世界で、わたしの名前を聞いて五体投地しているのに、敬礼されないのであれば、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土で、衣服の仕立てや直しが必ず行えないのならば、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土のものがみな、生まれてすぐ苦悩がなくならなければ、悟ったことにならない。

もし、自分の仏国土が、そこにいる者がみな望む通りの配置をしていないなら、悟ったことにならない。
もし、他の世界で、わたしの名を聞いて、感覚に不具合があるなら、悟ったことにならない。
もし、他の世界で、わたしの名前が不安をもたらすのならば、悟ったことにならない。
もし、他の世界で、わたしの名前を聞いても、貴族に生まれ変われなければ、悟ったことにならない。
もし、他の世界で、わたしの名前を聞いても、善根を育てることがなければ、悟ったことにならない。

もし、他の世界で、わたしの名前を聞いても、悟りへの道が途絶えてしまうのなら、悟ったことにならない。 もし、自分の仏国土のものが説法を聞きたい時、期待通りの説法を聴けないのなら、悟ったことにならない。
もし、他の世界で、わたしの名前を聞いても、悟りに近づかないのであれば、悟ったことにならない。
もし、自分の仏国土で、みながわたしの名前を聞いて、良い認知ができなければ、悟ったことにならない。

以上、五十願あるが、阿弥陀如来の四十八願である。

ここに書かれた「自分の仏国土」というものが極楽浄土である。