「姑獲鳥の夏」京極夏彦 / これ、ミステリ的にはどうなのよ?
基本的に売れてるものは売れてるときに読まない質なので、今頃になって読んでみました。
もはや読者も一巡しているはずなので、既読者を念頭に置いていきたいと思います。
さて。
本書のように一見SFの顔をしていない小説にロゴス論や量子力学を盛り込もうとすると、どうしてもケレンに流れるのか、あるいはこの作家の特質として衒学的な筆致になるのか、ちょっと判断がつきにくいところがある。
ずいぶん前に読んだ「嗤う伊右衛門」の印象を反芻するかぎりではおそらくは後者なのだろうが、いささか読みにくい代物になっているのは否めないところだ。
昭和中期のレトロな装飾がその難を中和しえているかどうかだが、この点、「ロゴス論=呪」の観点から例をとると、夢枕獏の「陰陽師」を経てきた読者などには本書はやや無粋に感じられることもあるだろうし、生粋のSF者の視座に立つと湿り気がありすぎてスマートではない、ということにもなろう。
はたまた、いままでそのようなガジェットに接したことのない読者ならば、もしかしたら相当のショックにおそわれるのかもしれない。
その場合、踵を返して立ち去るかゾッコン入れ込んでしまうかのどちらかに大きく振れることになるだろう。
このような情報の非対称性が物語の動力源になってる作品では、構造上避けえない点として、名探偵ホームズにおけるワトソンのような「善意のおとぼけキャラ」が要求される。
なぜなら、情報力の格差が物語に起伏を与えるからだ。
本書のように、明白に観念論を核にすえた筆法を採るなら尚更その傾向を強めなくてはバランスがとれないし、当たりのやわらかい狂言回しの存在なくしては京極堂や榎木津のような癖の強いキャラクターを動かすのはほとんど不可能だ。
本作では主役格のひとりである関口がこの任を勤めているのだが、その彼がワトソンの機能を果たすと同時に物語の表裏を媒介する蝶番となっている点で、特徴的であるといえよう。
個人的には、なお関口の人物造形に靄がかかっていたのではとの思いが残るのだが、このあたりは単に好みの問題にすぎないのかもしれない。
既述したように、関口のキャラクター設定が物語全体の支点である以上、あまり削り込んでしまうと小説の成立すら怪しくなってくるからだ。
華のある京極堂や榎木津に目が向きがちだが、関口の描き方に著者の心血がより注がれたと見るのが妥当であり、一見して派手なガジェットよりも注視に値するのではないか。
以上が総論的な評になるのだが、僕にはひとつ引っかかっている点がある。
「新本格」を毛嫌いする人間がこう言うのも口はばったいが、推理小説の態をとっておきながら終盤の謎解きに至るまでにすべての判断材料を明示しないという了見は、いったいどうなのだろうか。
本書は新本格ミステリではないから、といわれればそれまでだが、後だしジャンケンのようにして強引に畳みかけられてしまうと、やはり読後がすっきりとしない。京極堂の得々とした解説が、釈然としない独演に感ぜられてしまう。
このあたり、ほかの読者がどう受け取ったのかに興味がある。
本書とうまく波長が合って一気読みできた読者は幸いである。残念ながらそうでない読者にとっては、まだるっこしくてとっつきにくい小説に映ったことだろう。
本質的に、読者を選ぶ小説なり作家であるのはまず間違いない。
次回作を手に取るかどうかは未定である。
オススメ度★★★
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