「黒い仏」殊能将之 / 本格推理原理主義者にこそ読まれるべき、推理小説
- 殊能 将之
- 黒い仏
これは驚いた。
狐の威を借る虎、本格推理小説の皮をかぶった娯楽小説。
本書を説明するには、こう表現するほかないだろう。
僕はこの小説を読み終えて、内容もさることながら、まずは著者のスタンスを評価したいと思った。
著者の名前はメフィスト賞受賞作「ハサミ男」、その分厚さで目を引く「美濃牛」で知ってはいたが、まさかこういう書き手だとは予想だにしていなかった。
殊能将之には推理小説を書く作家という印象しかなく、何度となく言っているように僕はトリック至上主義の「推理屋」作家が大嫌いなので、これまで特段食指は動かなかったのだが、彼が本格推理原理主義者を煙に巻くような小説を書いていたとは知らなかった。
巻末で豊崎由美(彼女が一文を寄せていなければ、そもそも読まなかっただろう)が指摘しているように、もしかしたら本格推理原理主義者は本書を批判するのかもしれないのだが、僕に言わせればそんなくだらんことを言う連中は狭窄な読み手で、物語を楽しむ能力に欠けているのを自ら宣言しているようなものだ。
作中で所々に顔を出すスノビズムも楽しいし、なにより殊能将之は、物語によって開示された世界の断面のひとつが、世界全体を説明するはずのないことを熟知している。
たとえば、中東で殺し合いが行われている瞬間にも、地球のどこかではつまらない痴話喧嘩が繰り広げられているように、同じ時間帯のなかで位層を違えて進行する現象は無数にある。
一方でオウム真理教が恐ろしいサリンを合成しているあいだにも、僕らはまったく別個に人生の享楽を得ていたし、日本経済にも影響を与える誰かの訃報が新聞の一隅を埋めているかたわらで、死者となんのかかわりもない子供の誕生日を祝っている家庭があったりもする。
おおげさに言えば本書「黒い仏」は、そういう多元性を内在させた推理小説である。
この思考様式は、おそらくこれまでの推理小説にはなかったものだ。
一般的に推理屋というものは新しいトリックの成立にのみ血道をあげる人種であり、現実世界の多層性をいささかも物語に反映させることがない、たんなる快楽主義者である。
否、作り手たるもの、快楽主義者であるのは当然のことなのだが、推理屋の快楽領域はあまりにも限定的で、世界をいちど分解し、解釈を与えて再構築する物語本来の力(それを魔法と呼んだっていい!)を著しく減じている。
むろん、かような態度もひとつの表現形式として相応に尊重されるべきなのだが、なかにはタチの悪い本格推理原理主義者も相当存在していて、ときに彼らは複雑怪奇な推理小説しか認めないことがある。
そんな連中へのよい処方箋になるのが、この「黒い仏」だ。
第一に推理小説としてもまずまずのレベルにあるし、推理による事件解決以外の現象が物語世界の基底をなしているからだ。本書最後の一文が、余すところなくそれを示している。
この小説はシリーズ化されているようなので、継続して読んでいる人には作者のスタンスは先刻周知のことなのだろう。
万が一、前作まではそんなことはおくびにも出していないのなら、僕は殊能将之にほれ込んでしまうかもしれない。
早い時期に読んでみたいものだ。
この1冊だけを読んだ限りでは、いろんな意味で他を圧倒して優れた作家とまでは思わないが、独自性(言うまでもなくトリックうんぬん以外の部分で)を持った書き手であることは間違いない。
それ以上に、なぜこういう作家がもっと脚光を浴びないのかを、僕ら読み手はよく考えるべきだろう。
オススメ度★★★
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