「サマー・バレンタイン」唯川恵 / 凡庸を絵で描いたような
- 唯川 恵
- サマー・バレンタイン
なにはさておき、書き出しを抜粋してみる。
それは不意にやってくる。
たとえばラッシュの朝、駅の階段をたくさんの人と同じ足取りで歩いている時。仕事の手があいて、窓から午後のオフィス街をぼんやり眺めている時。いまからの家族の笑い声を、ひとり部屋で聞いている時。ベッドの中で目を閉じた瞬間。何も予定がない休日の午後。それは何の前触れもなくやって来て、志織の胸を締めつける。
最初は皮膚の内側がひりひりするような感じがある。そして、暗い洞窟の前に立った時のような不安が忍び寄る。ああ、また来たと思う。消えてほしいと願っても、暗闇はどんどん近づいて来て、やがて志織を包み込む。
志織は諦めにも似た気持ちで体を丸め、両手で自分を抱き締める。それが何なのか、よくわからない。寂しさのようにも刹那のようにも、後悔のようにも感じる。けれどもやっぱりわからない。わからないまま泣きたくなってしまう。そして気がつくと、本当に泣いている。
それを孤独と呼んだら、誰かに笑われてしまうのだろうか。
同僚の友里に、ついそんなことを話してしまったのは、昨夜のそれがまだ糸を引くように志織の気持ちに気配を残していたからだ。
「それは恋人がいないからよ」
彼女はランチに入ったレストランで、注文した白身魚のフライを口の中に放り込み、あっさりと言った。
はい、もう無理です。
しゃらくさいったらありゃしない。
安い「孤独」もそうだが、なんでもかんでも恋に収斂させる思考停止ぶりにはもう呆れるしかない。
このアホらしいくだりが主人公の志織や友里なるキャラクターの人物造形の問題でないのは、その後の物語が終始一貫して御伽噺のような恋愛模様を描いていることからも明らかで、その内容自体、どこかで見たような定型をなぞるばかり。
主人公が高校生時代に片思いしていた男の子と再会し、恋愛感情が再燃していくなかで、過去に置き去りにしてきた青春のわだかまりを解消していくだけの凡庸な小説で、この類の物語はたとえば柴門ふみあたりが一手に担えばそれで済むのに、といつも思う。
独特のものがないのだから、唯川恵という別の誰かが書く必然性がまるでない。
こういう作家は絶対に後には残らない。
雑誌媒体では、スペースを埋めることだけを半ば目的にしたような「埋め草記事」なんて卑語があるが、これなどはまさに埋め草小説だろう。
ファンの方には悪いけれど、無理して読んで損した。
オススメ度★
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