「若者はなぜ怒らなくなったのか」荷宮和子/ 浅はかな世代論 | 辻斬り書評 

「若者はなぜ怒らなくなったのか」荷宮和子/ 浅はかな世代論

荷宮 和子
若者はなぜ怒らなくなったのか―団塊と団塊ジュニアの溝

価値観を画一化しようとする機械的な悪意に憤らず、唯々諾々と現状追認する若者たち。
小手先のマイナーチェンジに満足し、破格の突出を避ける若者たち。
同世代以下のそんな姿に常日頃から焦れている僕ではあるが、本書において著者(1963年生まれ、いわゆる「くびれの世代」)の展開する稚拙な世代論にはホトホト閉口した。
読み合せが悪かった のだろうが、いったい中公ラクレ新書とは「くびれの世代」をメインターゲット層に、その狭い範疇だけで通用すべき言説を扱うニッチレーベルを企図しているのか。
一般性に乏しい企画路線があるのならば、始めからそう案内していただきたいものだ。

さて。
残虐表現のオンパレードで物議をかもした小説「バトル・ロワイヤル」への違和感から筆を起こした筆者の論調は、詰まるところ、所与の用件から逸脱しない「団塊ジュニア」の当世流の生き方の淵源を「団塊の世代」に求め、それを非難するものである。
筆者によれば、「バトルロワイヤル」は「決まっちゃったことはしょうがない」とアッサリ社会要件を受け入れる若者のマインドを如実に反映しているのだそうだ。
未読の方のために敷延しておくが、件の小説が背景としているのは、「将来への意欲の薄い若者に生命の有限性を感得させ、もって活気ある日本社会を実現するために、法令によって毎年全国から無作為に選出された高校生学級が無人島で殺し合いを強制させられる」社会であり、離島での苛烈なサバイバル描写を理由に文芸賞から排除された作品だ。
筆者がこれを強く非難する理由というのが、突如として理不尽な環境に陥らされた高校生たちが、すぐさま実行者(サバイバルゲームを主導する政府の人間。小説での「金八」、映画版でのたけしがこれに相当する)に立ち向かうではなく、素直に(?)同級生同士で殺戮し合うことらしい。
しかしこれには「バトルロワイヤル」を一読した人間なら驚嘆すべき読み違えがあって、まず高校生たちは催眠ガスで意識を失っているうちに遠隔操作で起爆する爆薬を埋め込まれた首輪を架せられており、反抗するや否やただちに爆殺される状況下にあるという点と、サバイバルゲーム開始が宣言される直前のオリエンテーションで実行者に対して反抗的態度をとった生徒がその場で処刑されてしまい、彼我のあいだの圧倒的な力の差を見せ付けられているという点が、見事なまでに捨象されている。
「バトルロワイヤル」の眼目は、そのような不条理に投げ込まれた高校生らがパニック状態下でどういう選択をし、行動するかを描くことであり、凄絶な殺戮を生き延びた者が政府の転覆を誓って野に潜る結末で締め括られている。
これをどうとれば、『「決まっちゃったことはしょうがない」とアッサリ社会要件を受け入れる若者のマインドを如実に反映している』のか、僕にはさっぱり理解できない。
冒頭からこのようなトンチンカンな主張が述べられ、ほとんど目眩のする思いだったが、それでも我慢して読み進めていくと出るわ出るわ、主観の範囲を出ず社会学的な考察が重ねられていない言辞の数々。

思わず本を壁に投げつけたくなる衝動を必死で抑えるハメになった。


曰く、本来マーケティング手法にすぎない売り上げ指標がそのまま人気ランキングとして配信され、購買者のマインドがそれに支配されている、あるいは同調している。
曰く、若者は「三瓶です」のギャグ(なつかしい)を、みんながおもしろいというから笑っているだけ。

僕にいわせれば、これらをもって「若者に自分がない」とする筆者には、現象から本質を抽出する能力が著しく欠落している。
本当に若者のすべてが単純な価値基準に依拠するのならば、たとえば一頃に較べて多種多様に分化した漫画雑誌の発行や、レゲエやヒップホップのように従来になかった音楽表現の隆盛をどう説明するのか。
コンテンツごとに成り立つ多チャンネルの時代がますます進行している状況を、どう説明するのか。
「三瓶です」が内包するナンセンシズムをキャッチする若者ならではの感性を、たんに筆者が共有できないだけではないのか。
筆者は、自身をマスの価値観から逸脱して独自の価値観を尊重した「おたく第一世代」と強調するわりには、他の価値観を用いる者に不寛容である。
あらたな価値観を掲げて学生運動を展開した「団塊の世代」を、あまり熱心ではなかったもののそれに同調した多くの同時代の若者を特にあげつらって「付和雷同の類い」と定義し、その子供ら―すなわち「団塊ジュニア」―をして劣化コピーと罵倒する偏狭さには、目を疑うばかりだ。

個人的には、生まれながらにして豊かさや権利がすでに用意されており、社会資本や社会制度があるレベルまで整えられていることがいまの若者の無意欲につながっていると思うのだが、筆者の言説には現代の生活環境への言及もなく、または地上を東西に分けた政治思想やその影響への考察もなく、いや別になくたっていいのだが、肝心の若者が怒らなくなった理由についての首尾一貫した論説がない。ややもすれば「バカだから」のひとことで済まされてしまう。

「親が悪い」「子がバカだから」では、ただの茶飲み話ではないか。


終始このようなオバチャン談義で話が進み、やれ石原慎太郎がどうの小泉純一郎がどうのと、底の浅い記述だけがダラダラと続く。若者を揶揄するつもりなのか目を丸くしているだけなのかしらないが、まるで論理的でない文章をいくら書き連ねても、かえって若者の失笑を買うだけである。老婆心ながら、そうご忠告申し上げておこう。

誤解を招かぬためにいっておくが、僕もいまの若者の小賢しさに腹を立てている人間のひとりだ。老成したような顔して既存のシステムに疑義を挟まない若者などには反吐がでる。
が、皮層的印象論だけで奇妙な世代論を書いてしまう筆者のような元若者には哀れみを覚えるのみである。

荷宮さん、僕はあなたには怒れない。


オススメ度★

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とりあえず、中公ラクレの新書はしばらく読まないことにしよう。