昨日の朝方、そして 今朝には

シュメール の話が来ており....


( かつての導きが 繋がる内容 )


暫し見つめながら 、また、春休みである息子との過ごす中で 次々と出てくる言葉に  口を借りる伝達を感じる中におりました。







では、ホセア書に纏わる 紡ぎ出しを。


聖書につきましては、 固有名詞の表記 の違いや  訳の表現によって印象が微妙に異なりますが 、中身に込められている様々は 同じように感じます。



私の手元にある  THE BIBLE は、先日ご紹介した訳 、本日ご紹介した訳とは また 少し 違う表記があり 日本語への訳 、日本語の表現の豊かさが また 面白いなぁと感じました。


例えば
第6章 3節

わたしたちはしゅろう、
せつにしゅることをもとめよう。

しゅあしたのひかりのようにかならあらわれいで、

ふゆあめのように、わたしたちにのぞみ、
はるあめのようにうるおされる。



この あしたの光 が、暁の光 だったり、曙の光 だったり しているのですよね。 

ひとつの状態や様子、他国の言葉を  表現するにも日本語ならでは の  言葉  言霊の 響きや 幅の広さや 含む豊かさを感じました。



内容については
読み進めてすぐ イズレエル って?とキーワードの引っかかりを感じ、場所の名称のようでもあり、イズレエルの日  とも出てくる 栄光だとか 大いなる日 とか .... 


なんだろう、何かある....と、
まず ここに ひとつ目の想いがある事を抱いておりました。








抜粋 )

第1子が生まれたとき、「イズレエル」と名づけるように命じました。「イズレエル」というのは、イスラエル王国の中心地のサマリヤの町から北へ20キロほどの町でした。イズレエルの谷のそばにあった町です。そして、イズレエルの意味は、ヘブル語で、もともと、「神は種をまく」という意味です。


そして、神が種をまくというのは、聖書においては、悪い意味でもよい意味でもどちらでも使われます。

悪い意味で使うときには、神は裁きの種をまくという意味で、神が裁くことを意味します。

よい意味で使うときには、神は祝福の種をまくという意味で、神が祝福してくださることを意味します。

終了 )


裁き  、祝福 、両方だと知り、 ふと 共通点を感じたのは 日月神示です。






辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。


九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。


何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。

遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ



九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。

恐ろしい日ざぞ。

今は型であるぞ。

改心すれは型小さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。 ○ゝ と神との戦でもあると申してあろがな。

戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦はかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。十月二十五日、ひつ九のか三。




九月八日の仕組近ふなったぞ、この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄へ 戦争つきはつ大道ぞ。







旧十月八日、十八日、五月五日、三月三日は幾らでもあるぞと申してあろが、
此の日は臣民には恐い日であれどには結構な日ざぞと申してあろが、


神心になれば

神とまつはれば

神とあななへば

臣民にも結構な日となるのぞ。
其の時は五六七の世となるのざぞ。



の部分が よぎりました。







やはり  、日月神示と聖書を同時に 導き受ける意味は、  導き手が同じということだと自らの体験を持って感じるのですが



読んで下さっている方々も きっと 同じように抱いていらっしゃるのではと思いますm(_ _)m



これ自体も 

日本ユダヤ


日本イスラエル

結びの ひとつであり、
他に繋がり行くことを実感しております。







また、



イズレエル  の  Wikipedia を拝読した際には   ある 一箇所が 引っかかりました。


抜粋)

後に、北イスラエル王国アハブ王の宮殿が建設され、王妃イゼベルの影響でバアル礼拝の中心地になった。

終了)

イゼベル、ジザベル 。あの 体験繋がりです。






あの時  見えた 地面は、ジザベルの死 の場面、アピール だったのでは と当時 密かに抱いておりましたが  


その娘  アタルヤ の体験も振り返りながら





最初は、私がユダ族の諭しを 受け続けてきた  として  、ユダ族の男児を  殺めた という 戦慄の場面や 他 、感じ、

正直な所身構える部分があったのですが


彼女達のエネルギー に接した時 
恨みや 憎しみによる 接触では全くなくて


あなたなら分かってくれるでしょうという託すような想い



あなたが  誤解や 行き違いや 様々 見抜いて  あなたの言葉で それを 表してはくれないだろうかと  そういう様な



訴え掛けてくる  接触アピールを 母娘から受けていた理由は

やはり、魂の因縁 であり 


バアル信仰に纏わる様々を解き放ち 告げて欲しい意思のような 何かを 体験当時 から 抱き、感じながら  まだ  潜めていたのです。





その 経緯 あってからの  この ホセアとの対面は  、



九鬼 ~~を使い  バアル達の封印を 解く 行くぞ 





と 言われ、連れられ、 参加した 魂世界での 作業 、従事した 光景と  重なるのではないか と思っております。 



ここにも  

絡み もつれた何かを 
結び直すための メッセージがあるのではないかと 思いました。

続)